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教科書を読む「蜘蛛の糸」⑦

2021年の4月に出版した「音読教室」最後の部分をようやく。
「ごんぎつね」と「蜘蛛の糸」の分析はひとまずここで終了です。
今、川端康成、カフカと別の音読解析を始めてますが、
なかなか皆さんに共有できるほどの汎用性がなく・・(笑)
機会があったらどこかの場所で発表できるようまとめておきたいなと思っています。

それではラストお付き合いください。

おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちに立って、この一部始終しじゅうをじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとするカンダタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着とんじゃく致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足おみあしのまわりに、ゆらゆら萼うてなを動かして、そのまん中にある金色の蕊ずいからは、何とも云えない好よい匂が、絶間たえまなくあたりへ溢あふれて居ります。極楽ももう午ひるに近くなったのでございましょう。

さあ、いろいろあったカンダタの地獄の周りからまたお釈迦様の世界に戻ってきます。
 『ごんぎつね』では読み手がどの位置からごんや兵十を見ているかが大切だと言いましたが、このお話では今読み手の自分自身ががどこの世界に存在しているかがとても重要です。
 ここの段落からまた読みは穏やかにで無風に。よって平坦にです。
悲しそうな顔をしながら〉もそれほど悲しく思い入れを込めて読まないほうが良いです。文字を立てるだけで十分。
 なぜならお釈迦様はカンダタを試そうなどという強い意志はなく気まぐれにちょっかいを出しただけ。やっぱりだめだったのねくらいのもの。むしろ初めから助ける気などなかったのかもしれません。
 そう考えると少しドライに読んでもいいです。
 〈またぶらぶらお歩きになり始めました〉は何事もなかったようにお釈迦様のシーンが再開されるので、ケロリと、少し高めに読んで、美しい世界の始まりを伝えます。
しかし〜頓著いたしません〉も文章の通り、地獄の魑魅魍魎など天上に住む自分の預かり知るところではないという意味を含めてむしろ上から目線で。
金色の蕊からは、なんとも言えない良い匂いが〉などは下界に比べて不変のものを持つ余裕をこめて嫌みたらしく少し大げさに。
極楽ももう昼になったのでございましょう〉時刻も朝から昼近くになり、地獄とは明らかに違うゆったりとした時間の流れも表現します。笑みを浮かべながら、うやうやしく音を落としていき、言葉で距離を取っていきます。ここでの距離は下界と天上との距離であり、先ほど起こっていたあの糸の一件が遠い昔に感じられる時間の距離です。
 極楽は私たちが簡単には近寄ることができない世界なのです。
 ラストの納め方は解釈によって何通りもあるでしょう。若い頃の自分ならもっと違う読みをするはずです。
この読み方はカンダタに焦点を当ててはいません。それは、私がこの『蜘蛛の糸』という話を、カンダタの利己主義を罰するという類の話だとは考えなくなったからです。もし自分があのような極限状態にいたならカンダタと同じようなことをしたかもしれない。人は正しく生きられないこともある。そこは責められない。それよりもこの天上のどこかに揺るぎない絶対的な美、絶対的な善があり、それを信じる心がお釈迦様が垂らした蜘蛛の糸。そして細い糸でたとえ辿りつけないと分かっていても、信じきることが大事。今の私はそんな風に思いが至るからです。きっと70歳になった自分はまた違う解釈をするのだろうと思います。同じ人間でも人生のときどきで読み方が違ってくる。それもまた音読の楽しさです。

次の蜘蛛の糸の音読解析まで、ひとまず。

2022・1・3 TBSアナウンサー堀井美香