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【特別公開】「君は神戸に行ったか」──『残らなかったものを想起する』「おわりに」

「災害アーカイブ」に関する15の実践を紹介する論集『残らなかったものを想起する』の刊行を記念して、本書の「おわりに」を公開します。
※謝辞等は省略しました。

「君は神戸に行ったか」

1995年1月、阪神・淡路大震災が起きたあと、ある雑誌の見出しに踊っていた言葉だ。のちに「ボランティア元年」と名付けられる当時の神戸には、多くの人々がやってきた。傷ついた人の力になりたいと駆けつけた人、ある種の興奮状態でいてもたってもいられずやってきた人、「火事場見物」の興味本位でやってきた人。当時の神戸には、「助けになりたい」という共通認識ではまとめきれない、多様な理由、多様な背景をもつ人が被災地に足を運んでいた。

本書を構想してから4年、私は本書を送り出す編者としての最後の役目として、この「おわりに」を書いている。現在、2024年元日に起きた能登半島地震から1か月が経とうとしている。報道映像やSNSを通して、被災地の風景が映し出される。火災によって消失した街並み、倒壊した家屋群、液状化によって波打つ道路。私は、10歳のときに私の周りに広がっていた神戸の風景と重ねずにはいられない。

ただ、1995年の神戸と、2024年の能登とでは、被災地を取り巻く状況が大きく異なる。ここ数年だけを見ても、地震、豪雨、コロナ禍など、復旧・復興のフェーズを社会全体で見届ける余裕もなく、次々に新たな災害が起きている。人口減少や高齢化も相まって、被災地に投じられる財政規模も縮小の一途を辿っている。

こんなふうに現在の私たちの社会状況を書いていると、暗澹たる気持ちになってくる。もう八方塞がりではないか、と。次々起こる災害に対処しきれず、手詰まりである、と降参したくなる。ただ、私はどうしても、わずかな希望を捨てきれない。それは、95年に「君は神戸に行ったか」という言葉が発せられたこと、そしてそれが、本書のねらいである、「災害アーカイブ」というアクションをパフォーマティブに検討することとつながりがあると感じずにはいられないからだ。

「君は神戸に行ったか」という言葉は、自身とは直接関係のない出来事であろうとも、その渦中に入り、何が起きているのかをつぶさに見ること、触れることを促す言葉だ。それは、被災地とそこで暮らす人々への「真摯さ」をあらかじめ持つ者だけに投げかけられているわけではない。「火事場見物」、「野次馬」的な感性をもつ者にもまた、この言葉は投げかけられている。最初は浅はかな興味でも構わない。それでもかかわろうとすることで、事後的に育まれる「真摯さ」もあるはずだ。95年の神戸は、良きにつけ悪しきにつけ、被災地とかかわるための「間口」が広かった。それが、神戸というローカルな場で起きた出来事を、私たち社会全体で考える課題として捉えることにつながった背景のひとつであると、私は考えている。

「災害アーカイブ」の実践知は、被災という「あの日」から長い時間をかけて練り上げられたものである。そして、本書の執筆陣は、過去の災害を「かつての誰か」の出来事としてではなく、「私たち」の出来事として提示している。本書を読み終えた人は十分に理解してくださると思うが、本書で紹介したアクションを取り巻くムードは、決して「あたたかい」とか「やさしい」といった言葉でのみ捉えられるものではない。葛藤や衝突を繰り返しながら互いの考えを擦り合わせ、その時点の最善策としての「暫定の正解」を集団で作り上げていく。そのようなプロセスを経て成り立つのが、過去の災害をみなで考える「災害アーカイブ」というアクションなのだろう。

来年1月17日は、阪神・淡路大震災から30年の節目となる。ぜひ、読者のみなさんには、本書を携えて災害アーカイブの現場を訪れてほしい。神戸でなくともよい。本書に書かれていない場所でもよい。災害の想起をめぐる運動に参加してほしいと願っている。これが、私なりの「君は神戸に行ったか」という投げかけである。


高森順子
1984年、兵庫県神戸市生まれ。情報科学芸術大学院大学産業文化研究センター研究員。大阪大学大学院人間科学研究科単位修得満期退学。博士(人間科学)。グループ・ダイナミックスの視点から、災害体験の記録や表現をテーマに研究している。2010年より「阪神大震災を記録しつづける会」事務局長。2014年度井植文化賞報道出版部門受賞。著書に『震災後のエスノグラフィ──「阪神大震災を記録しつづける会」のアクションリサーチ』(明石書店、2023年)、『10年目の手記――震災体験を書く、よむ、編みなおす』(共著、生きのびるブックス、2022年)など。

▼2024年4月12日 刊行記念イベント開催予定

▼販売サイト

●はじめに 実践知としての災害アーカイブ
高森順子

【第Ⅰ部】 「あの⽇」以前の暮らしへの回路を創造する

●第1章 語り
──被災の「前」について語ること
⽮守克也・杉山高志

●第2章 復元模型
──「あの日」より前の風景、街並み、そこでの記憶を復元する
磯村和樹・槻橋 修

●第3章 被災写真
──予期せぬアーカイブとしての
溝口佑爾

●column 01
「わたし」を主語にする──育児日記の再読をとおした震災経験の継承の試み
松本 篤

【第Ⅱ部】 「あの⽇」への想起のダイナミクス─モノを創造する

●第4章 報道写真
──御嶽山噴火の新聞報道にみる記録のポリフォニー
林田 新

●第5章 絵画
──関東大震災における美術家の表現活動
武居利史

●第6章 手記集
──「読む」まえに「ある」ものとして
高森順子

●column 02 応答のアーカイブ─東日本大震災から「10年目の手記」
佐藤李青

●column 03
展覧会というメディアの可能性(1)─「3・11とアーティスト:進行形の記録」
竹久 侑

【第Ⅲ部】 「あの⽇」への想起のダイナミクス──場を創造する

●第7章 記念式典
──災害を社会はいかに記憶するか
福田 雄

●第8章 災害遺構
──何を残し、何を伝えるのか
林 勲男

●第9章 文化施設
──わすれン!アンダーグラウンド──「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の活動に見る映像メディアの実践と倫理
⾨林岳史

●第10章 映像
──断片をつなぎあわせて透かし見る
青山太郎

●column 04 展覧会というメディアの可能性(2)──「3・11とアーティスト:10年目の想像」
竹久 侑

●column 05 12章「カタストロフィの演劇体験」への手引き
富田大介

【第Ⅳ部】 未災者との回路を創造する──実践と研究の「あわい」から

●第11章 美術館
──人の心を動かす主観的記憶の展示
⼭内宏泰

●第12章 演劇
──カタストロフィの演劇体験──「『RADIO AM神戸69時間震災報道の記録』リーディング上演」省察
富田大介

●おわりに
高森順子

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