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「デスノート・ザ・ミュージカル」    世界へ向けて

「デスノート」をミュージカルにする、そうした動きが始まったのは確か
2011年から13年ころのことだと思う。

2012年、作曲家フランク・ワイルドホーンのミュージカル「ボニー&クライド」を上演したとき、出演者の濱田めぐみの歌声を大層気に入ったフランクが「メグミのCDを作るべきだ」と打ち上げの会場で言い出した。

僕は軽い気持ちで「あなたのプロデュースで、レコーディングの費用を極力抑えて、ニューヨークでレコーディングしてくれるならやるよ」と返事した。
するとあれよあれよと話が進み、数ヶ月後にはニューヨークでレコーディングすることになった。

話はさかのぼり、ホリプロにとっては初めてのワイルドホーン氏作曲のミュージカル「ジキル&ハイド」が成功したことを受け、「シラノ」、「モンテ・クリスト」、「ボニー&クライド」と立て続けにワイルドホーン作品をホリプロが上演することになるのだが、その間、お互い会うたびにオリジナルの作品を作ることを提案し続けていたが、なかなか思うような作品候補が見つからなかった。

ある時、藤原竜也主演の映画「デスノート」にホリプロが製作委員会に入っていたことから、ホリプロ社内で「これをミュージカル化しよう」という機運が高まった。そこで「どうせやるなら作曲をワイルドホーン氏に依頼したらどうだろう」ということになった。

実際ダメもとで依頼したところ、フランクはもちろん日本の漫画「デスノート」もアニメもまったく知らないので、当初はあまり気乗りしないようだった。
それでも原作本や資料をたくさん持って帰ってもらって検討してもらうことになった。

彼はアメリカに帰国するや、当時ティーンエイジャーだった息子に「デスノート」について尋ねてみることにしたそうだ。
すると、「デスノート」の存在をすでに知っていた彼の息子はこう答えたらしい。

「パパ、ほかのどんな仕事よりも先に『デスノート』をやるべきだよ。」

こうして「デスノート」ミュージカル化の動きは一気に動き出した。
そして冒頭の濱田めぐみレコーディングシーン。
私は最後の2日間だけレコーディングを覗くためにニューヨークへ飛んだ。

ロウワーマンハッタンの小さなレコーディングスタジオは、90年代隆盛を極めた伝説的ナイトクラブ「ライムライト」の跡地にほど近い場所にあった。

ボーカルブースは人が2人くらいでいっぱいになるくらいの小ささで、ミキサーがある部屋は20畳くらいの広さだったろうか。3人掛けのベンチソファーの後ろの壁には、ザ・フーのピート・タウンゼントのサイン入りギターが無造作に吊るしてある。

1980年代頃のものから最新のものまで、夥しい台数のシンセサイザーが、いつでも音が出る状態で壁いっぱいに並んでいた。

そこには、後に「デスノート」のデジタルサウンドデザインをはじめ、ホリプロ、東宝作品に多数参加することになるヒロ・イイダ氏、そしてアレンジャーとして卓に座っていたのは、後にミュージカル「生きる」の作曲をすることになるジェイソン・ハウランド氏、そしてフランクと濱田がレコーディング作業をしていた。

2日目の午後、フランクが子供を連れてスタジオにやってきた。この子こそ「デスノート」ミュージカル化を後押ししたその人だった。
僕は静かに持ってきたiPadに「デスノート」の登場キャラ、リュークの映像を出して彼に見せた。

彼はにっこり笑ってひそひそ声で言った。「Cool!」
この時点では一部の関係者とこのスタジオにいる人以外、極秘で進んでいたプロジェクトなので、小さな声を出したのだろう。
僕も小声で「Top Secret.」と言ったら、彼は唇に人差し指を当てた。

フランクは次々と曲を作ったが、最も初めの方にできた曲は濱田演じる死神レムが歌う「愚かな愛」だった。まさに濱田に当てて書いたともいえるこの曲は彼女の代表曲の一つだと思う。

ミュージカル「デスノート」は日本初演後すぐに韓国で、韓国人キャストスタッフで、日本の演出のまま上演するというミラクルな企画だったので、脚本のアイヴァン・メンチェルによって英語でまず書かれ、それを日本側と韓国側で同時に翻訳するという作業を選んだ。

この作品はいずれ海外を目指すのだから英語で台本を作っていた方がいいという判断と、すぐに韓国で上演するための二つの理由からだった。

すべての楽曲が完成し、まずニューヨークでブロードウェイの役者たちによって英語で歌うワークショップが行われた。日本初演の前にプロモーション用に公開していたのが、この際の音源である。

楽曲の良さと原作の世界観がマッチしていて、「これは当たりそうだ」という予感はあった。でも何といっても日本のお客様はオリジナル作品に手厳しい。まだ予断は許されなかった。

そしてついに「デスノート ザ ミュージカル」上演情報が解禁された。

「ホリプロも2.5次元作るのか?」
「何を今さらデスノート?」(すでに漫画連載は終了し、実写映画公開から10年が経っていたからだろう)
「ホリプロ狂ったか」
「デスノートのミュージカル化なんて、反対です!!」

Twitterの反応は散々だった。
原作の熱烈なファンからすれば、主人公たちが歌い踊るなんて考えられなかったのはわかる。それ以上にミュージカルファンからも非難の声が多かったのは堪えた。
しかし、少しずつキャスト情報を解禁していくと、ミュージカルファンの感想は変わってきた。

「豪華キャストじゃん」
「2.5次元じゃないんだ」
「これグランドミュージカルだよ」
「ホリプロは本気だ」

主演Lに小池徹平、夜神月は浦井健治と柿澤勇人のWキャスト、その父総一郎に鹿賀丈史、死神リュークは吉田鋼太郎、そして死神レムはあの濱田めぐみらが出席して、遂にオリジナル作品「デスノート・ザ・ミュージカル」の制作発表が行われ、僕は「たとえ30年かかっても、いつか大西洋を渡ってブロードウェイか、ドーヴァー海峡を渡ってウェストエンドで上演したい」と言った。
この言葉は、それ以後オリジナル作品を作る時にずっと言い続けてきた。

さらに韓国バージョンの連続上演と、その主演を元東方神起のキム・ジュンスとホン・グァンホという、韓国ミュージカル界のスーパースターが演じることも発表された。

2015年4月6日、日生劇場で「デスノート」の1か月にわたる幕が上がった。
初日までのチケットの売り上げは十分ではなかったが、初日終演後からTwitterで火が付き、チケットは飛ぶように売れた。大成功だった。

日本初演後のレセプションにて
日生劇場ロビー


同時にTwitter上では「デスミュ」という言葉が自然発生し、韓国版を見に行く日本人も沢山いた。
幸いなことに韓国版も2か月公演が完売となった。

2015年ソウル公演


2017年には日本人キャストの台湾台中市での公演が実現。

台湾公演 台中市のナショナルシアター
タイトルは「死亡筆記本」


韓国では2022年に新演出版が上演され、実に4か月半のロングランが完売。今年も半年近いロングランで完売を続けた。

2022年ソウル新演出版公演
ソウル2022年


その間2021年、ロシアでコンサートバージョンが上演され、2022年ロシア語版の「デスノート」を上演する予定だったが、ご承知の通り戦争でそれどころではなくなった。

そして今年2023年、ロンドンで現地のプロダクションによるコンサート版が8月21日からロンドンパラディウム劇場で上演された。
おかげさまで3公演とさらに場所を移してリリック劇場での追加3公演すべて完売したそうだ。


ロンドン・パラディウム劇場
正面入り口

集英社、ホリプロのクレジットも


8月21日のソワレ、22日のマチネとソワレ。
キャパシティ2000席の劇場の周りでは、開演の1時間前から観客が並びだし、その長さは入り口の左右2ブロックに及んだ。見る限り日本人の姿はほんのわずかだった。

客席はほかのミュージカルの客席とは明らかに違う客層で占められていた。
若い世代の男女、ミサミサやLのコスプレに身を包んだ人々、赤、青、ピンク、黄色など様々なカラーに染められたヘアスタイル、タトゥーにピアス、「デスノート」や「エヴァンゲリオン」、「進撃の巨人」といった日本の漫画のキャラがあしらわれたTシャツやパーカーを着た人たち...。

開演1時間前に長蛇の列

立ち見も出る満員の客席は、暗転するなり大歓声。1曲歌い終わるごとに口笛を鳴らし、大歓声。死神リュークとレムが登場しただけで大歓声。
2時間余りのコンサートバージョンは毎回熱狂の中終焉した。

グッズも完売。右開きのプログラムは、ロンドンのお客様には、それだけで面白いらしく、飛ぶように売れた。
私の前に座っていたインド系のお客さんは、休憩に入ると我々の方を振り返り、

「あなたは関係者か?」と尋ねてきた。
「私たちは日本のオリジナル版のプロデューサーです」

と答えると、自分と娘がどれだけ「デスノート」のファンで、アニメも実写映画もすべて見て、今日という日を待ち望んできたか、ロンドンで上演してくれた感謝の言葉を口にし、記念に我々と一緒に写真を撮った。

その隣にいたミサミサのコスプレをしていた女性も、その話を聞いていたらしく、記念撮影をせがまれた。

「デスノート・ザ・ミュージカル」の立ち上げからずっと携わっているKプロデューサーなどは終演後多くの人からサインをせがまれたほどだった。
観客のほとんどは作品の世界観を追体験し、楽曲の素晴らしさに興奮していたようだ。

劇場を出た後も、入り口の前に100人近くがたまって興奮気味に話し合っ

ソワレ休憩中

たり写メをとる姿がそこここで見受けられた。

楽屋口にも100人以上が出演者のサイン欲しさに出待ちに並んだ。

終演後楽屋口にはサイン待ちの長い列が


このコンサートには「メリーポピンズ」のプロデューサー、「ラブ・ネヴァー・ダイ」のプロデューサー、バービカン劇場の関係者などロンドンの演劇関係者も多数詰めかけてくれたが、一様に今までのミュージカルや演劇にはいない客層だと、そのマーケット性について熱弁してくれた。
また作品をとても面白がってくれ、我々を祝福してくれた。

演劇サイトやブロガーの評価も相当高く、この評判の高さは本物のようだ。
うまく事が進めば、ついにドーヴァー海峡を渡って正式なミュージカル上演のための製作が始まるかもしれない。
それくらいこの作品は強いのだということを再認識した。


作曲のワイルドホーン氏、脚本のメンチェル氏、演出のウィンストン氏と
日英のプロデューサーチーム

今振り返れば、そもそもなんで「デスノート」をミュージカルにすることに躊躇なくチャレンジできたのか?

当時をさかのぼることさらに数年前、たまたまロンドンに短期留学していた藤原竜也と現地で落ち合い、パブの外の席でビールを飲んでいると、目の前を通り過ぎた通行人がもう一度戻ってきて、竜也に対して「君はムービースターだろ?」と声をかけてきた。
そこで私は「そうだけど何を見たんだい?」と聞いた。

「CATVで『バトルロワイヤル』と『デスノート』を見た。おもしろかったよ。」

彼はそう答えて去っていった。

僕は蜷川幸雄さんの作品の上演でロンドン、ニューヨークをはじめ様々な都市へ行った。ある時も「ムサシ」のニューヨーク公演を終えて、劇場から歩いて打ち上げ会場に行く竜也と一緒に歩いていたら、またしても通行人がすれ違いざまに

「『デスノート』を見たよ!」

と声をかけてきたこともあった。
また別の時には、ロンドンの劇場の楽屋口で出待ちをしていたファンが、プログラムを持って竜也に走り寄ってきて言った。

「僕はあなたに会うのが夢だったんだ。サインをください!」

「デスノート」が大好きなんだと語る彼の短パンから出た足のふくらはぎに、夜神月とリュークのタトゥーがびっしり彫り込まれていた。

こうした経験から「デスノート」は大人が知らないだけで、深く、広く、確実に海外の若者に浸透しているのを実感した。
世間の懐疑的な見方はあったけれども、我々が実写映画公開から10年経っても、ミュージカル化をマイナスと感じなかったのはそうした理由からだった。

「デスノート」と僕には本当に縁があるなあとつくずく思う。
藤原竜也に映画出演のオファーが来た時、香椎由宇に薦められてすでに漫画を読んでいたこと。

なかなか映画のL役が決まらなかった当時、公開された「男たちの大和」に駆け出しの松山ケンイチが重要な役で出演していて、それがきっかけで月もLもホリプロの俳優が演じることになったこと。その後の松ケンの活躍はご承知の通り。

僕に漫画を薦めてくれた香椎由宇が映画オリジナルのキャストとして出演したこと。

韓国でヒットしていたミュージカル「スリル・ミー」を日本で上演することになったことをきっかけにして、「デスノート」を韓国で連続上演するアイデアが進んだこと。

濱田めぐみのレコーディングをきっかけにして、ヒロ・イイダ氏と友人になり、デジタル・サウンド・デザインという仕事が日本でも認知されたこと。

同じくその場にいたジェイソン・ハウランド氏の仕事ぶりを見て、「生きる」をミュージカル化するにあたって、彼に作曲してもらうことになったこと。

「デスノート」ロシア公演が中止になって落胆したときに、ロンドンでのコンサートバージョンの話が一気に進んだこと...。

数え上げればきりがない。
「デスノート・ザ・ミュージカル」は期待に胸を膨らませて海を渡っていく。
日本の演劇界のためにも、夢のようなことが実現に近づいていく。
メイドインジャパンのミュージカルが、世界に認知される日を信じて。


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