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かつて「緊急事態」を理由に、国会の決議なしで死刑を導入した法律があった?


立法権と帝国議会

 現在、法律を決める権限=立法権は、国会に属していることはいうまでもありません。

 戦前の大日本帝国憲法ではどうだったかというと、立法権は天皇に属してはいましたが、天皇が自分で法律を勝手に決められるわけではなく、帝国議会(国会)「協賛」して決めることとされていました。「天皇は帝国議会の協賛をもって立法権を行う」(第5条)という規定がこれをあらわしています。

 帝国議会のうち貴族院は華族その他天皇が任命する非公選の議員でしたが、衆議院は国民の選挙で議員が選ばれるので、部分的には国民の意思が反映されていました(ただし女性には選挙権なし)。
 「協賛」という言い方ではありますが、帝国議会が決議して法律を制定するのと実質的には同じだったと言えるでしょう。

帝国議会の議決なしで法改正?

 しかし戦前、この原則に反して、帝国議会の議決なしで法改正を行い、しかも死刑を導入した例がありました。
 それが悪名高い治安維持法です。

 この事情は、先日の記事で少し触れましたが、今回はこれを詳しく見てみましょう。先日の記事と少し重複する部分もありますが、ご承知おきください。

治安維持法の制定

1925年の加藤高明内閣の時に、帝国議会の議決を経て制定された治安維持法は、

第一条 国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として、結社を組織し又は情を知りてこれに加入したる者は、十年以下の懲役又は禁錮に処す

と定めていました(一部表記を改めています)。
 ここでいう「国体」とは、天皇が統治する国の体制「私有財産制度」とは資本主義経済という意味ですから、結局のところ、天皇制の廃止や資本主義経済の否定を目的とした結社を組織したり、事情を知りながらこれに加入した者は、10年以下の懲役又は禁固の刑に処する、ということです。

 条文を気をつけて見ていただきたいのですが、ここで処罰対象になっていたのは、あくまで「結社」=組織、団体です。例えば「天皇制の廃止を主張した発言をすること」「資本主義経済を否定して社会主義を主張する論文を発表すること」は、少なくとも条文上は処罰対象とはされていないことに注意してください。

 ただし第2条以下で、これらの目的のための「協議」「扇動」も処罰対象とされており、そこから拡大解釈された運用につながっていきました。

帝国議会を通さずに治安維持法を改悪

 さらに1928年、時の田中義一内閣は、治安維持法の改正(改悪)案を第55回帝国議会に提出しました。これは処罰範囲を拡大し、最高刑を10年の刑から死刑に厳罰化するものです。さすがにこれには異論を唱える声も多く、帝国議会では可決されないまま閉会しました。

 そこで政府はどうしたかというと、帝国議会の決議無しで、天皇の勅令で改正することにしたのです。

 なぜそんなことが可能だったのかというと、大日本帝国憲法の第8条では、天皇には、公共の安全を保持し、又は災厄を避けるため、緊急の必要により、帝国議会閉会中に、法律に代わる勅令(緊急勅令)を発する権限が定められていたからなのです。

 つまり今でいえば、「内閣総理大臣は、国会が開会できない時に、法律に代わる政令を発することができる」という緊急事態条項の案が議論されているのと同じようなイメージで捉えれば良いでしょう。

 こうして1928年6月29日、昭和天皇の裁可により緊急勅令が発せられ、治安維持法は、帝国議会を通さずに改正(改悪)されたのでした。

改悪による拡大解釈と弾圧

 この改正では、国体の変革や私有財産の否認を目的とする結社の組織や加入だけでなく、「結社の目的遂行のためにする行為」を行った者にまで処罰の範囲が拡大されました。

第一條 国体を変革することを目的として結社を組織したる者又は結社の役員その他指導者たる任務に従事したる者は死刑又は無期、もしくは五年以上の禁錮に處し、情を知りて結社に加入したる者又は結社の目的遂行のためにする行為をなしたる者は、二年以上の有期の懲役又は禁錮に処す

 この「結社の目的遂行のためにする行為」という言葉の拡大解釈により、結社の組織や加入を行っていない者に対しても、言論活動、学問研究、宗教活動に至るまで、弾圧を行うことが可能になりました。「結社の目的遂行のため」というのは非常に曖昧で、処罰の範囲を大幅に拡大することが可能な概念だったのです。
 極端な例としては、治安維持法違反で起訴された被告人のために弁護活動を行う弁護士の業務さえ「結社の目的遂行のため」という理由で取り締まりの対象とされたのでした。

帝国議会の事後承認

 ただし大日本帝国憲法は、この緊急勅令の濫用の危険をまったく意識していなかったわけではなく、一応の歯止めは設けていました。

 具体的には、緊急勅令は、次の帝国議会で承諾(つまり事後承認)を得る必要があることとされていたのです。帝国議会で事後承認を得られなければ、その時点から将来に向かって効力を失うこととされていました。(最初から無効だったことになるわけではありません。)

 結果としてはこの治安維持法を改正する緊急勅令は、1929年3月に、第56回帝国議会で事後承認されています。

治安維持法の犠牲者・三木清の例

 この治安維持法は多くの言論、学問研究、宗教等の弾圧に悪用され、多くの犠牲者を出しました。
 有名な例では、『人生論ノート』などの著作で今も知られる哲学者・三木清が、治安維持法違反で検挙され、1945年8月15日に戦争が終わっても拘束されたまま、9月26日に病死しました。敗戦後もまだ治安維持法は廃止されていなかったのでした。

三木清『人生論ノート』 新潮社ウェブサイトより

  このことがきっかけとなってGHQは、いまだに治安維持法による言論・思想弾圧が行われたままであることを知り、治安維持法の廃止を日本政府に命じたのです。


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