偏差値という尺度

個人的に、世の中で最も謎に感じる尺度のひとつ「偏差値」について考えてみる。

厳密にいえば尺度でも何でもない偏差値という数字が、「相手の価値を参照できるもの」として扱われていることに、正直なところ嫌気がさす。

ChatGPTに尋ねてみると、偏差値はこう説明できるらしい。

つまり、集団内での相対的な地位を示したものなのだ。

集団の中で「あなたは『上位16%以内』ですよ」というと分かりづらい。だから「あなたの偏差値は60ですよ」というと分かりやすい。そうして偏差値は、独り歩きして尺度になっていった。

高校や大学の偏差値が話題になる。

知人や著名人の出身高校を知って、それが馴染みのない高校であればGoogle検索をしてみる。ヒットした上位記事には、例外なく偏差値が掲載されているだろう。「50以上なら平均より上で、50未満なら平均より下」、誰でも偏差値という尺度に接してきたから、経験をもとに数値のざっくり感でもって良し悪しを判別するというわけだ。

だがChatGPTがいうように、偏差値はあくまで集団内での相対的な地位に過ぎない。東大生の中でテストを行なえば、東大に合格した人でも偏差値40ということがあり得るわけだ。

偏差値が重宝されているのは、

・相手と比較することでしか評価ができない
・相対的でなく絶対的な尺度のテストをつくれない

ことが原因だ。

映画「グランツーリスモ」では、アーチー・マデクウィ演じるヤンが、ゲーマーからプロレーサーになる姿が描かれている。大学にも行かず、毎日進路のことで父親から苦言を呈されているヤン。テレビゲームで優れた成績を収めていることを告げるも、「たかがゲームで」と父親から見向きもされない。父親は優秀なサッカー選手である弟など、社会的に分かりやすく評価されている他者とヤンを比較し、その上でヤンを「落第生」だと評価するのだ。その人のありのままを見ずに「普通はこうだから」といった比較をベースにした物の見方だといえよう。

その結果、分かりやすい尺度として偏差値が機能している。

息子は今春から小学校に進学する。しばらくは偏差値と無縁の生活を送るだろうけれど、ひとたび進学塾などに通うようになれば、偏差値という尺度に一喜一憂する生活を送ることになるだろう。

偏差値が上がった/下がったで、気分が浮き沈みすることがあるかもしれない。もしそんな姿が見受けられたら、冷静になるよう諭すことが僕にできるだろうか。いや、冷静さを保てるよう今から準備する必要がきっとあると思う。

偏差値なんて、何の基準にもならない尺度だ。それよりも、意味のある数字や感覚を大切にしてほしい。何を大切にするのか、それこそ、その人の真価が問われるのだから。

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