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子ども 日本風土記〈福岡〉より① 「 わたしも働きたい 」

「 わたしも働きたい 」

いつも夕ごはんのとき、おとうさんとおかあさんが、
「今、会社がつぶれかけているよ」といっています。

わたしは、それを聞いて悲しくなりました。
「もし、会社がつぶれると、ごはんも食べられなくなり、住むところ
もなくなる」と思ったからです。

それからは、おかあさんも働きに出ました。
おとうさんは、会社へ行って、九州造船のおいちゃんたちとストライキをしています。

だから、わたしとひろちゃんでるすばんをします。
でも、わたしが帰るのがおそいときは、おとうさんが先に帰るときがあります。
おとうさんとわたしでごはんの用意をします。
おかあさんが、「ただいまあ」と帰ってきます。
「おかえり」
「おかえりなさい」
と、ふたりでいいます。
おかあさんは、家の中を見回しながら、
「わあ、見ちがえるように、きれいになったね。ありがとう」と、びっくりしてうれしそうでした。

わたしは、「やっばり、わたしでもやくにたつのだな」と思って、うれしくなります。

夕ごはんのとき、おとうさんとおかあさんが、
「あれも、かわないけん」
「これも、かわないけん」
といって、心配そうな顔をして話していました。

夕ごはんがすむと、おかあさんが、
「さあ、あとかたづけをせんな……」と、きつそうにいいました。
わたしが、
「おかあさん、ゆっくリテレビを見よき」といって、茶わんをあらいました。
「おかあさん、ぜんぶしたよ」というと、
「ありがとう。あんたばっかりにさせてね」と、ねたままいいました。
それから、みんなはすぐねました。

あくる日の朝、おかあさんは七時五分ごろ家を出ました。
つぎに、おとうさんがでました。
ふたりとも、きつそうに出ていきました。

わたしとひろしちゃんは、「勉強だけだから、なにか働きたいな」と考えました。
おかあさんは、病気のときも働きに出るからです。
おとうさんは給料をもらってないからです。
こんな調子だから、「働きたい」と考えたのです。

うちじゅうみんな、おとうさんの会社が早くよくなるのをのぞんでいます。

                   (北九州市小石小四年 田口節子)

子ども 日本風土記〈福岡〉より


昭和47年発刊の「子ども日本風土記」は当時の子どもの作文を各県ごとにまとめてあるものですが、「大人ならではの利害を考えた忖度」もなく当時の風俗や家族の暮らしの様子をリアルに伝える貴重な資料となっています。
今日に照らすと、家族観などおおいに参考となるとか考え、何回かに分けて紹介いたします。

北九州市小石小学校は、北九州市若松区にある小学校です。
明治から昭和初期において、好景気に涌いた筑豊炭田の集積地であった洞海湾の海に接する地区にあり、製鉄から金属加工、海運など一大工業地帯であったわけですが、昭和30年代から40年代にかけて炭鉱の閉山が相次ぎ、それに伴う鉱工業も次第にさびれていきました。

父親に給料が支払われず、生活を支えるお金にも困っていた状態というのは、小学生であった田口さんにとって、とっても辛いものだったでしょう。

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