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太陽のように温かな母親の人柄が、チャップリンの才能を開花させた ~ 「チャップリン自伝ー若き日々」を読む ⑥


ある日のことだった、食堂にいると突然一人の看護婦がわたしのうしろ
で立ち止り、頭のてっぺんの毛を分けていたが、いきなり、「タムシだわ!」と叫んだ。
前にも書いたような事情があっただけに、瞬問わたしはおそろしい勢いで泣きだした。
治療には何週間もかかったが、わたしにはそれこそ永遠のように思えた。
クリクリ坊主にされてヨードチンキを塗られ、その上からまるで綿摘み人夫の頭のようにハンカチで縛られてしまった。
ただ二階の窓から下の子供たちを眺める気にだけは、どうしてもなれなかった。
どんなに彼らが上の連中を軽蔑しているか、知っていたからである。

隔離中に母が面会にきた。
母はどうにかして貧民院から出たらしく、目下親子水入らずで暮せる家を探しているところだと言った。
母の姿は花束のように見えた。
生き生きとして美しく、坊主頭にヨードチンキを塗られた汚ならしい格好が、なんとも恥ずかしくてたまらないくらいだった。
「汚ない顔をしてますけど、かんべんしてあげてくださいましね」と、看護婦がとりなしてくれた。
母は大笑いをしながら、わたしを抱きしめ、キスをしてくれた。そしてそのとき言ってくれたやさしい言葉、「ええ、ええ、どんなに汚なくてもいいわよ、ほんとにかわいいお前なんだから」というのを、わたしはいまでもおぼえている。
このことがあってから間もなく、シドニイはエクスマス号から下船してくるし、わたしもハンウェルを去って、ふたたび一家そろって暮すようになった。
母はケンジントン・パークの裏手に一部屋間借りして、しばらくはわたしたち兄弟を養えるようになった。
だが、結局それも長つづきはせず、また貧民院へ舞いもどらなければならな
かった。
その間の事情は、母の仕事がどうしても見つからないこと、おまけに父の役
者商売もどうも思わしくないということに関係があったらしい。
しかもこの短い水入らず生活の間にも、たびたびわたしたちは引越しをしなければならなかった。
それは将棋の勝負にも似て―最後の詰め手は貧民院行きということだつた。
こんどは住んでいた教区がちがったので、貧民院もまた別のへ送られた。
そしてわたしは、そこからまたノーウッド・スクールというのへ送られることになった。

平成25年刊 チャップリン自伝 ー 若き日々(新潮文庫)P54ー55


***

自分が生活することもやっとであるが、母ハンナは、少しでもお金が入ると、チャップリンたちを引き取る為に、貧民院にやってきた。
そのことは、幼いチャップリンにとって、どんなに嬉しかっただろうか。
生計が成り立つとか、そんな問題では無い。
なりふり構わず、世間体も何も考えずに笑顔で、自分を迎えに来る母。
「母の姿は花束のように見えた」と言う言葉は、まさにその嬉しいを通り越した感情を表している。


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