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おく

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 日記、エッセイのようなものを書いてみる。

 きっかけがある。
「ホースさん、ブログとか書いたりしないんですか」
 この間、職場でそう、脈絡もなく言われたのである。
 小説を書いてネットにアップしていることは秘密にしているので、どぎまぎしてしまった。
「なんでそう思ったんですか」と尋ねると、「何となくです」と言って、会話は終わりになってしまった。

 このところ、小説を書くペースがちょっと落ちてきたので、それもまあいいかもしらん、と思いながら帰りの雪道を辿った。積もっていた雪が溶け始めて、この間まで畝になっていたところも、かつて道だった姿を取り戻している。人とすれ違う時に、片方が足を雪の中に突っ込んで待たなくても良くなっている。白く同じく染められていた地面にに、歩道や道路、土、砂利、まばらに生えた雑草の境界が再び姿を現している。

 昼間、一緒に住んでいる人から、携帯電話にメッセージが入っていた。
「ケーキもらった」
 何だかそんなこと言っていた気がするなと思い見返してみると、自分が「じぇ」とだけ返信している。
 家で待っていると、あの人がケーキを職場の皿に載せて持って帰ってきた。それは大きなドーム型をした、ピンク色の塊だった。
「いちご味らしい」
 食事を終えて改めてよく眺めてみると、スフレのようなものらしい。試しにフォークで触れてみると、濡れたスポンジを絞るみたいな音がした。少しだけフォークで掬って口に運び、すぐにラップをして冷蔵庫にしまってしまった。

 誰かに何かを贈るというのは難しいことだなと思う。
 少なくとも自分は、何かを人から贈られたとき、自分も今度何か返さなきゃとか、どんなものを返せばいいだろうかとか、そんなことが先に頭によぎってしまって、素直に喜べないことが多い。
 自分はすぼらしい人間だな、と思うと同時に、そういう人も多いのだろうと思ったりする。

 「ターゲット」という言葉を使ってしまうことが、仕事で結構ある。誰に対する企画なのか、誰に対するサービスなのか、誰に対するメッセージなのか。
 言っても詮ないことだなと思うのだけど、何だかその、尖った矢印のようなものが自分に向かってくることがある。そしてそれが時々、暴力めいて感じることもある。
 だからこそ、誰に頼まれるでもなく、ただそこにおかれているものの美しさたるや、と思うことがある。あるいは、長らく見放されていたであろうものに、自分が、自分だけがはっとさせられたのではないかというその錯覚の美しさたるや、と思うことがある。
 そういう文章を書きたい、書ければな、書かなくてはといつも思う。

 何の目的もなく、日記のような文章をひけらかしてしまうことの怖さも少しある。これが誰かにとっての矢印になってしまう可能性も、きっとある。
 でもおいておかないと。おいてみて、ためすがめつ自分でも眺めてみないと。
 そう思って日記をおいてみることにする。

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