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現実逃避したいときに水族館に行く話。【気まぐれ旅日記】

たまに、何ごともない一日を過ごしたくなる。嫌なことがあったわけではないけどなんとなく憂鬱で、私の思考はどんどん仕事から引き離されていく。

そうやって自分がこの世界で孤立しているような気がするということが、なんともない瞬間、誰にでも訪れるのだと思う。

やらなければならないことが手に着かなくなって、どうしようもなく自分がひとりぼっちに感じたとき、私はすべてを放り投げて外出することにしている。

そういうときにいつも頼るのが水族館だった。その日も私は水族館に足を運んだ。

知らない名前の、見たことのない魚が泳いでいる水槽をぼうっと眺めて、いま自分が存在しているということを、すこし、曖昧に考えてみる。

館内は暗ければ暗いほど落ち着く。
光がなければ自分と空間の境界線が曖昧になって、身体が空気に溶け込んでいくような気分になれる。

私は小説を書くことが好きだ。なんとなく曖昧で、魂の輪郭みたいなところが覚束ない、そんな私の存在を証明していくようで心地いい。

小説が誰かの人生を変えるなんてきっと滅多に起こりえなくて、多くの作品は、その人にとって過去になるしかないのだと思う。
「そういう作品があった」ことだけが記憶の片隅に引っかかって、いつの間にか消えてしまう。

ひとつの作品に溢れるくらいの想いを詰め込んだとしても、そのすべてが読んでくれた人に届くことはあり得ない。それは解釈の余地が多いという小説の大切な特性なのかもしれないし、単に私の文体のせいなのかもしれない。

でも私は、誰かにとっての、そういう過去になるだけの人間でいたい。

たとえば、生きていればいいことはあるという言葉に正当性を見いだせずにいる人々は、きっと、まるごと救われるような何かではなく、本当はくだらない一日を積み重ねるための延命措置のようなものが必要なのだと思う。

無理に泣く必要も、眠れずに焦燥感だけが募っていく夜を憂鬱に思う必要も、きっとなくていい。肯定的な言葉を無理に紡いで、自分を奮い立たせる必要もない。

水族館は、たしかに、時間がゆっくり流れている。

水槽の、柔らかく降り注ぐやさしい光のなかで、生き物が懸命に泳いでいたり、地面で休んでいたり、そういう営みのなかでなんとなく自分の存在を曖昧にしたり強く感じてみたり、そういう時間がきっと人を救うのだと思う。

私にとって水族館は、時間に関係なく自分を癒やすための、欠かせない存在になっている。


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