憲法は、コンスチチューションか?明治初期の翻訳史概観

はじめに

 現行憲法改正議論が、政治日程の至上に乗って久しいが、今一つ議論が盛り上がらないし、それぞれの主張がかみ合わない。如何に、議論ベタの日本人、あるいは日本社会であっても、こと国家の骨組みである憲法の議論が、盛り上がらない背景には、憲法という存在が、国家の基本方針を基礎付ける存在である、という憲法の性質の他に、憲法という漢語(言葉あるいは熟語)そのもののが持つ複雑な意味背景が、一つの原因を作っているのではないか、というのが本小論の主張である。(この点は既に『国際情報学紀要』創刊号で、多少触れた~

 今回は、コンスチチューションに憲法という言葉がその翻訳語として定着するまで、翻訳語の変遷を文献的に、大まかである検討しよう。というのも、コンスチチューションの訳語として憲法が定まるまでには、紆余曲折が有ったからである。

 

文字の意味からの考察

 

 先ず、憲法という熟語の検討の前に、ここの漢字の意味も、蛇足ながら一応検討しておこう。

 憲法の件という漢字は、①おきて「法則」「法律」(「書経」益稜)②模範(「詩経」小雅桑邑③のっとる。法に従ふ、規範とする。(国語楚語)④主要な地位を占めている官吏。⑤あきらか(古く顕と通じて用いる(「中庸」;憲令徳)(服部宇之吉他「詳解緩和大辞典」また、一国の国体・政体を規定した根本の法律(*これは近代以降の解釈であろう)。また①人間の行動を取り締まるわく。おきて「万邦為憲」(「詩経」小雅)②邦の組織や政治の仕組みの根本の原則を定めたおきて(*これは近代以降の解釈であろう)。③上官を貴んで着ける言葉④アキラカに目立つさま(藤堂明保他「学研新漢和和大辞典」)が一般的な説明となろう。因みにその文字の成り立ちは、「被せ物+目」からなり、目の上に株説勝手な行動を押さえる枠を示す。害の時の上部によく似ている」と解説している)

 更に、同様な成り立ちから憲(の字の心をとった部分)は、入墨用の針、これで目の上に入墨する字が憲(の心をとった部分)、則ち刑罰の意であるか、のち法の義となった。刑罰を加えるものであるから憲法・憲令となった。(白川静「文統」)更に白川は「群吏をして禁令に憲(ノット)らしむ」のように用いる。と述べている。

 更に、法については、明確ではあるが、①のり、かた、てほん、おきて、きそく②てだて、③しかた・・(服部前掲)。①のり(人々の生活を取り締まるために定めたわく、おきて。②のり;決まったやり方。(藤堂前掲)さらに同書ではその成り立ちを「池の仲の島に珍獣をおしこめて、外に出られないようにしたさま。珍獣はその中では自由であるが、そのわくの外には出られない。ひろくそのような、生活にはめられたわくをいう」と説明している。また、法の中には、仏教の真理という意味もあるがその辺りの意味の紹介は、今回は割愛した。

 以上が、文字としての憲と法の基礎的な解釈である。

 更に、ここで、日本語に訳したときの「のり」や「おきて」という言葉に関しても、古語辞典から検討しておこう。大野晋ほか「古典基礎語辞典」)によれば「のり」は、「みだりに口にすべきでないことを言うの意の動詞ノル(宣る。)の連用形名詞。」であり、「法律、法令、掟」を意味する。更にもとの「のる」に関しては1・直接に物の上に位置をとり、身を預ける意」と「神が人に憑く場合にももちいられ、人の精神活動を思いのままに左右することをいう。」となっている。

 次に憲法であるが、「国家のおきて、国法。(『国語』晋語)さらに(法律用語、つまり近代以降の意味に関して)統治権の主体・客体及びその機関の作用・権限などをきていした国家の大法」(前掲小柳)や、

 「国家のおきて・・・。など前掲書にほぼ同じ」(前掲藤堂)となっている。以上の点を押さえておき、穂積の『法窓夜話』・『続法窓夜話』の「憲法という語」の説明を導き手として、現在に通じる憲法という言葉の意味の変化を検討してみよう。

 漢籍の教養に富む穂積は、憲法の初出とみられる部分を漢和辞典の紹介文にも委員要される『国語』「晋語」の「賞善罰悪、国之憲法なり」などを引用する。その後、憲法という熟語を憲と法に分け、憲と法の同意に関して検討している。

 その際に、憲と法の同義としての用例を『文選』の解説用いて「憲者法也」と紹介している。(25ページ)つまり、憲も法もほぼ同義語であるということを述べている。以上の様に憲法という熟語の古典的な用例を検討した。その上で、近代的な「憲法」という言葉と、古典的な憲法という言葉の相違に関して、憲法という言葉の意味的な構造を明かにしてゆく。

 まず、穂積は、その豊かな漢文の素養を生かし、憲の字に「懸」の意味があるとして、『周礼』などの古典を引用し、「支那の古代においてもちいられた「憲法」なる語には「懸け示されたる法の意味がある。」(『続夜話』26~27ページ)とする。さらに「憲」には「著しく明らかなる」という意味があるとして、『中庸』の17章「憲憲令徳」などを引用し、憲を顕彰の顕と見なせるとして、「憲法」は「明法」または「厳法」と同義語であろうとする。(29)その上で、「憲をもって法に対する形容詞として「著しく」または「明らかなる意」である、とする。この様は、一般の辞書的レベルでは、見出せないようにも思われる。この点は、専門外であり、断定できないが、前述のように穂積の意図は、憲法という言葉の文献学解釈ではなく、近代憲法とそれ以前の憲法の違いを明確化するための作業にあり、古典的な意味を明確化にしようとしているのではないのではないのである。

 それ故に、穂積は聖徳太子の「憲法十七条」に用いたれた「憲法」という言葉の解釈を念入りに行うのである。そして、憲法の憲の字を形容詞的に用いた事例の嚆矢として、あえて『憲法十七条』を取り扱う。つまり、憲法の憲の字を「形容詞的に用いた例もまた必ず存すべきもの必ず存すべき者と思われる・」(29)と前置きした上で「これについては吾人の最も注意すべきは、「我国」におて「憲法」なる熟語の初見たる『日本書紀』の推古天皇十二年の条における「憲法十七条」を古訓に「憲法(イツクシキミノリ)」と訓じてあることである。」(同)として、この言葉を漢語的ではなく、和語的に解釈する。この様な理解は、一種の飛躍であるが、穂積意図的には、日本の最も有名な法令の一つである「憲法十七条」の憲法と「明治帝國憲法」における憲法とを区別したかったが故の考察ということである。

 ところで明治以降の所謂日本の近代語、筆者の言う「翻訳語」には、その形成史から如何しても漢字の謂わば再利用(同じ記号である漢字を用いて、欧米の言葉の意味を表わす)しており、その混乱は以上の様に不可避であった。この点は宗教を事例として紹介した。このほかには、自然や文化、文明というような言葉も同様に屈折した意味を持っており、同様な混乱が生じている。しかし、こと憲法という言葉は、前述のものが文化領域における混乱に主に止まるのに対して、国家の根底に拘わる故に、問題は更に深刻であったろう。

 この後、穂積は日本の古典の分析に入り、専門的検討を加える。しかしその趣旨は、中国、日本の憲法という言葉の意味は「「憲法」という重々しい漢語を用いると、あるいは重要なる法律を指すように聞こえぬでもないが、我国においては、かように明治の中頃(つまり近代憲法の制定されるまで=引用者注)までは、現今(恐らく明治末から大正初期=引用者注)の如く国家の根本法という意義には用いられなかったのである。」(37)という結論を導き出すためにあった、と見るべきであろう。

 彼は、というよりも明治の法曹界のエリートを含めて為政者たちは、明治憲法の制定に関して、それほどまで高い意味を見出し、これを誇りに思っていたのである。この点は、後に検討する、西洋崇拝が固定化した世代の日本人に特有の感覚である。(西洋先進文明へのコンプレックスは、今に至るも存在するが、明治初期の人々にはそれは相対的に稀薄であった。これらの点は次回以降に検討する。)

 いずれにしても、穂積がわざわざこのような面倒な文献学的な検証から、憲法を扱わなければならなかった理由は、コンスチチューシオンという西洋発の法を「憲法」と訳し、またそれが一般化し、さらには政府が、翻訳作業における意図とは異なる理由で、それを決定したからである。これを 加藤の「国憲」とか井上の「建国法」などを採用していれば、このような煩雑なことは生じなかったはずである。しかし、結果的に、憲法という言葉が採用された背景には、おそらく日本独自の文化背景があったはずである。

 以下では、この点を検討してみよう。

コンスチューションの訳語の多様性

 穂積は、翻訳語としての用いられた漢語の憲法に関して前述の様に「我国に於いては火曜に、めいじの中頃までは、現今の如く国家の根本方といういみには用いられなかった」(『続夜話』37)として、「それ故、西洋の法律学が我国に入ってきた時に、学者は彼の「コンスチチューシオン(Constityution)あるいは「フェルファスング」などの語に当つべき新語を鋳造する必要に逢う着した。」(同)と述べている。

 その間の事情を「支那にもこれに相当する訳語がなかったものと見えて、安政四年に上海で出版になった米国人の*邦文氏著の「聯邦志略」にも、合衆国のコンスチチューシオンの訳語としての「世守成規」と訳してある。」(同177)を皮切りに、福沢が「西洋事情」(慶応二年)において「律例」、加藤弘之は、慶応四年の「立憲政体釈」、更には明治五年の「国法汎論」において「国憲」を用いたこと、また憲法という言葉は、Geset(成文法)の訳語としていると指摘している、と述べている。同様に慶応四年、津田直道は、「根本律法」「国制」、「朝綱」と翻訳していると紹介している。更に、明治憲法の草案作成に大きな功績があった井上毅に関しても「井上毅君でさえ明治八年にプロイセン憲法を訳されたときには「建国法」なる語を用いられた。」(同179)と強調している。

 一方では誰が何時憲法という訳語をコンスチチューシオンに充てたかということに関しては「しからば、憲法なる語を初めて現今の意義に用いたのはだれであるか。それは実に箕作麟祥博士であって、明治六年出版の「フランス六法」のコンスチチューシオンを「憲法」と訳されたのである」(『夜話』179、『続夜話』38~9)と紹介している。但し、この憲法と言う訳語は、前述の様な経緯もあってか、すぐには定着せずに、寧ろ加藤弘之の国憲が用いられていた、とも述べている。(同上)

 では、どうして憲法という言葉が採用されたのであろうか?その検討の前に、そもそも箕作はなぜ憲法という言葉を採用したのであろうか?この点を彼の堀束としての著作ではなく、今日でいえば国際政治学的、さらには比較文明的な視点で書かれた「萬国新史」を中心に検討しよう。

 以下の検討は、『政策文化研究所紀要』25号(2022年6月頃に出版予定)に掲載予定。次回は、ダイジェストで紹介します。

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