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9月2日 ◆ 「堂本剛 平安神宮 奉納演奏 2023」の参加のため、京都へ赴く

君の影揺れる日が
多くなってる気がする
小ちゃい男で終わりたくないって
光を射して気付かぬ素振してんだ

近頃の空
やけに狭く映るな
君も同じだろう
不安抱きしめてんだろう

君が苦しめられない保証が
この街にもあれば
勇気なしで背中押したけど
未だ気がかりだよ
強がる時が来たとしたら
これはチャンスだって
君ならきっと
笑い飛ばせてるよね

堂本剛作詩/街より

この夏、二度目の京都に赴いた。
一度目は家族旅行で、今回は毎年この時期に平安神宮で行われる堂本剛の奉納演奏に参加するためだった。

19時の開演に先立ち、平安神宮に到着して御朱印をいただく。平成30年から始まっている御朱印帳を見返していると、今回を含めて平安神宮の御朱印はこの時期に四度いただいているようだった。つまり、今年で奉納演奏への参列も四度目となる。
この奉納演奏は2010年から(コロナ禍の配信公演も含めて)毎年続いており、京都の街でもこの時期の風物詩として人々に受け入れられているという。「奉納」という名が付くだけあり、演奏終了後には、出演者と参加者で合同参拝を行い、堂本剛が得意とするファンクミュージックは場に合わせてバラードにアレンジされ、参加者も歓声を上げたりしない。一種の儀式の風情がある。
平安神宮という場と、夕刻過ぎという時間、そして大勢のひとたちという3つが掛け合わさって生まれるその場の雰囲気にむやみに吞み込まれぬように、平常心を保ったまま、開演の時間になるのを待っていた。

のだが、演奏中盤に「街」という曲が始まると、途端に私の目からは次々と涙が零れ落ちた。
ここ数年、私はライブに行くと、なぜか自分の現状を振り返って反省するようになっており(おそらく歌詞の影響だと思われる)、以前のように純粋に音楽に没頭できなくなっているのだが、今回も例に漏れず、心にひっかかっていた自分の仕事振りに対する不安が急に分析されていった。

同期と比べて自分の仕事振りが劣っていると評価されていること、自分自身でも他人と同じように仕事ができるようになっていない、できない仕事が多いと感じていることから、「自分の仕事のできなさから他人に迷惑をかけていて申し訳ない」と思っていたが、「自分では現状を課題だと認識して試行錯誤しているのに未だ解決されないことの無力感が辛い」のだと思い至った。

堂本剛が最後の挨拶で「自分を生きてください」と言っていたが、他人に目を向けがちな私に対して自分自身に目を向けることの必要性を彼は音楽と言葉を通じて教えてくれる。

あまりにも歯切れの悪い終わり方になってしまったので追記すると、私は堂本剛に対して手放しに好きとは言えない感情を持っている。
私は堂本剛が所属するKinKi Kidsが好きであり、人に「KinKi Kidsのどちらが好きだと思う?」と聞けば、多くが「堂本剛」と答えるほどには親和性がある。
哲学科出身で何かと考えることが好きそうだと見られることが多い私は、堂本剛の「宗教的」とも言われる思想性や、深いと言えば聞こえがいいが、面倒にも思える考え方を好みそうだと思われているのだと思う。

ただ、堂本剛のあまりにも強い人を惹きつける力、人を心酔させる力に、自分は引き込まれないぞと勝手に警戒してしまうのだった。
だから、この文章にも堂本剛の力への抵抗が現れてしまっていることをご理解いただきたい。
警戒しつつ抵抗しつつな私でも、生の歌声を聞くと、途端に心を震わせてしまうような魅力が堂本剛にはある。



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