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弱さや欠落があったとしても

友人の家に泊まり、娘さんたちとアニメのDVDを見てごはんをご馳走になった。

私がいいな、と思ったのは彼女が出した手料理が「お客さんが来たときのおもてなし」をあまり意識してなかった点。

私なら、他人に出す皿は試作をしたり、味付けをギリギリまで慎重にしてしまうだろう。彼女の味の飾らなさ、そっけなさに、救いをむしろ覚えた。

「なんだ、だったら自分もふだんから手作りごはんをそこまで躍起になり頑張らなくていいのかも」と。

「家事はちゃんとせねば」という無意識の気負いから、思いがけなく解放された。娘さんは二人とも天真爛漫で、元気すぎるほど元気だった。

この経験が、先日読んだ西加奈子さんの「くもをさがす」の読後感と重なった。

この本は、西さんがカナダで乳がんに罹患したご経験をつづったノンフィクションだ。

この本の中で、一番刺さった箇所を引用したい。西さんは移民として暮らしたカナダのバンクーバーで、さまざまなバックグラウンドと国籍を持つ隣人たちと関わり合い「助け合わないと生きていけない」という動かしようのない事実に気づかされる。

そしてがんにも罹り、改めて自身の限界も知ることになるのだ。

ああ、自分は一人では何も出来ないなぁ。弱いなぁ。日々、そう思った。そしてそれは、恥ずかしいことでも忌むべきことでもないのだった。ただの事実だった。 私は弱い。 私は、弱い。 日々そうやって自覚することで、自分の輪郭がシンプルになった。心細かったが、同時に清々しかった。

くもをさがす

これを読んで思ったのが、私たちの暮らす日本って「弱くいる」「弱くある」ということが強迫的に許されにくい社会なのかも…ということ。

弱くいる/あることを、自分にも他人にも許さないと、人は生きづらくなるが、私たちが暮らす社会は「まったく損なわれていないものしか、手放しで称賛しない」悪習慣があるのではと思った。

「全方位完璧じゃないと、ちゃんと人として扱ってもらえない」プレッシャーがあり、それを自分にも他人にも課そうとする文化があるように感じる。

私自身、20代のころ大きく健康を損ない、持病と付き合うことになったが、そこで感じたのは絶望だった。

「ああ、もう"普通の人"の人生からは外れることになるんだ」と。自分の弱さや欠落に対し、恥じる気持ちが生まれた。

でもこの本を読み「弱いということは、果たして恥ずべきことなのか」という問いが生まれた。また、冒頭でおうちにお邪魔させてもらった友人は、「いまは主婦として子育てしてるのもあり、働いて稼いではいないけど、とても満たされている」と言っていた。

学生時代からの長い付き合いから、彼女が心の底からそう思っていることが伝わり感じ入った。私なら、専業主婦をしていたら「十分に働けていない」ことで自分に欠落を感じたり自分を責めてしまうかもしれないと思った。

彼女は「さとちゃんを満たすのはね、さとちゃん自身なんだよ。それは外や他人に求めるものではないんだよ」と言葉をくれた。

完璧でないこと、欠落があること、ときには弱くしかいられないことを、まず自分自身に許そうと思う。それができて、他人に対しても許容できることが増える。

自分にも他人にも、期待しすぎない優しさがあると思う。

くもをさがす、はまた別の大切な友人に贈った本でもある。

この本の内容にはこれ以上触れない。先入観なしに読んで、湧き上がる感情をたしかめてほしい。

ただ、読んだ人の目に見える世界が、少し変わる本だと思う。







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