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【掌編】薄暮に思いはつのり

冬の夕暮れ、冷え込む台所に二十分だけ、と思いながら立って、一人分の夕食をつくっている。小さな土鍋に水を張り、昆布をひときれ放り込んで煮立たせると、絹豆腐を半分に切ってほうりこむ。ひややっこをあっためたの、というかもうこれは湯豆腐だ。

グリルではじゅうじゅうと鮭が焼けていて、ちぢみほうれん草もさっとゆがく。冬場だけの、この甘い菜は、特別なごちそうだ。炊飯器がピーッと鳴って、飯が炊けたことを知らせてくれる。

小皿に盛ったゆであがったほうれん草には、さっと醤油をまわしかけ、かつぶしを乗せる。つやつやの白飯をちいさな飯椀によそい、つづいて土鍋もこたつへと運んだ。

秋に同居の母を見送り、一人きりの冬を迎えた。二人の食卓だったちゃぶだいの前に、いまは一人で座っている。外はしんしんと雪が積もる夕暮れ時で、飯を食べても、テレビをつけても、風呂に入っても、ただ一人をかみしめるだけだ。

湯のなかで泳ぐ豆腐が、うまくつかまえられなくて、なんども箸がすべってしまい、豆腐がどんどん小さくなってしまう。母が生きていたならば「ああ、へたくそだねえ。貸してみなさい、とってあげるから」と苦笑いをしただろう。

昭和初期生まれで激動の時代を生き抜いてきた母に、私はなにひとつ勝てる気がしなかった。父が早くに亡くなったあとも、教師をしながら私と弟を立派に育て上げ、休日ともなれば洗面所や風呂場など、家のすみずみまでを磨いた。少し味つけが濃い手料理も、まめにつくっていた。

私が病気をわずらって、寝たり起きたりの暮らししかできなくなった時期も、働いてずっと支えてくれた。いまは幸い、なんとか生活できる分だけの稼ぎを、パソコンとネットを使って絞り出せるようにはなったが、それでも、いつも「母みたいにきちんとしたひとにはなれなかった」という想いがつきまとう。

焼き鮭に大根おろしを添えるのも、ちぢみほうれん草を知ったのも、すべて母経由だ。母の葬儀のときに、参列者の方がよく「立派なお母さまだったわね、これからこころもとないでしょう」と、私に声をかけてきた。不肖の娘としてはうなずくしかなかった。

それでも、母がこの世界から消えても、私の心臓はとくとくと時を刻む。まだ、生きていることを、細胞たちが選んでいる。私は、私の生をまっとうせねばならない。

雪に閉ざされた晩は、とみに母の存在を近く感じる。「しっかりしなさい」と私の背中を、とんとん叩いて励ましてくれているように思える。

一人の食卓が終わり、食器を洗いに立ったら、テレビの天気予報が、明日から気温が平年並みに戻りますと告げた。





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