見出し画像

【小説】夜桜に約束

春は苦手だ。なんとなくそわそわして、気持ちが落ち着かない。おまけに今年は、六年務めた第三営業課から、総務企画課に異動になり、俺はとてもあわただしい四月初旬を送っている。前任者からの引継ぎに継ぐ引継ぎで、何から手をつけたらいいかわからないほどの、慣れない新しい仕事が山積みなのだった。


企画課の窓からは遠く桜並木が見える。寒い四月だから北陸はまだ七分咲きといったところだ。今週末くらい、もし休日出勤にならなければ、嫁と息子を連れて花見にでもいけるだろうか、とぼんやり考えながら、俺は大きなくしゃみをひとつした。花粉症なのでマスクが欠かせないのだ。


昼どきになり、嫁がつくってくれた弁当を広げながら、何気なく携帯を見ると、着信が一件あった。見慣れない番号に、不審に思いながら、廊下に出て折り返した。


「啓介か? 俺、中学の同窓生の三谷だよ」
「おー、三谷か。どした?」


電話に出たのは、中学時代の俺のクラスの学級委員だった三谷壮太だった。なぜ俺の番号を知っている、といぶかしんだところで、三谷が言った。


「悪い、三年前の同窓会のときにつくったクラス名簿見てかけてんだ。実はさ、俺らのクラスの担任だった塩田先生が亡くなったんだ。もし、弔問に行くなら、葬儀場の場所とか、連絡しようと思って」


塩田先生、通称おっちゃんは、俺が中学生のころ、すでに定年間近の白髪混じりのじじいだったから、亡くなったとしたら、享年は80歳前後くらいだろう。おっちゃんは厳しかったが、クラスはまとまって仲がよかった。


どっと押し寄せる中学時代の思い出があふれてしまわないうちに、俺は返事をした。


「行くよ、お通夜なら夜だよな。いつの何時から?」


「四月八日の月曜日、七時半からおおぞら天翔で。ほら、あのカーマの近くの」


了解、といって電話を切って、俺は大きなくしゃみを連発した。

通夜の夜は、仕事を無理を承知で早めに切り上げると、車でおおぞら天翔へ向かった。俺は生まれ育った町に三十八年間住んでいて、仕事もこの町で見つけた根っからの地元民だ。嫁は、隣町の酒屋の娘だった。ちゃきちゃきとした性格で、たまに喧嘩もするが、基本的に長く連れ添うのにふさわしい、気立てのいい女だ。


胸ポケットに入れた香典袋をそっと背広の上から押さえて、ちゃんとあることを確認すると、俺は葬儀場のエントランスをくぐった。


ロビーのあたりに、すでに弔問客がちらほらいて、俺はその中から、中学時代のクラスメイトのグループをすぐに見つけることができた。


学級委員長の三谷、サッカー部キャプテンの下堀、囲碁部の羽田。女子は一人だけ、粟屋みちるという、クラスの中心になっていた女子がいた。


「おー、山原」


下堀が、タバコをくゆらせながら声をかけてきた。時計を見ると七時二十分だ。


「この時間で、俺らのクラスはこんだけか。少ないな」


羽田がそう言うと、粟屋が口を挟んだ。


「紀子、くるって。ちょっと遅れるらしいけど」


粟屋が何気なくもらした言葉に、俺は息を呑んだ。


「紀子って、斎藤紀子? あいつ東京に行ったんじゃなかったっけ」


「去年こっちに戻ってきてんのよ。あれ、山原くん知らんかったん?」


「うん」


俺は言葉を切り、もう春のせいだけじゃなく胸がざわつくのを抑えられないでいた。斎藤紀子は、俺が中学時代に、いっとう憧れて、いっとうムカついて、いっとう――、そう、つまりは、気になっていた女なのだった。


そのとき、ブーンと自動ドアが開いて、黒い喪服のワンピースを着た細身の女性が一人、駆け込んできた。粟屋がさっと立ち上がって名前を呼ぶ。


「紀子!こっちこっち」


俺は一瞬で紀子から目をそらし、まともに顔を見ることができなかった。それでもなんとか顔を上げて、ちらりと見ると、ああ、変わってねえな、と胸にしずくが落ちるように思った。


切れ長の瞳に、さっぱりとした髪型、おうとつの少ない体つき、喪服のワンピースほど彼女に似合う服装はないとでも思うような、全体的にシンプルを際立たせた立ち姿。


まぎれもない、斎藤紀子がそこにいた。三年前の同窓会には来なかったのに。いま、どうして彼女は、地元に戻ってきたのだろう。大事なものが、東京にあったはずなのに。


下堀が、無遠慮に紀子に聞く。


「斎藤ってさ、高校出たあとはたしか美大行って、イラストレーターでご活躍してたんじゃなかったっけ? なんで、帰って来たん?」


紀子は、ああー、と言った表情で、苦笑すると言った。


「母親が去年倒れてさー、誰も介護できる人がおらんかったんよ。それと、絵はもうやめたから」


なんで、と俺の口から、強い語気で疑問が飛び出しそうになったところで、お通夜の始まる時間となってしまった。俺たちは、斎場に入ると、順番に並んでおっちゃんにお参りをした。


通夜が終わると、みんなそれぞれに帰っていった。下堀と三谷に、飲んでいかないかと誘われたが、明日も仕事があるからと断った。しぜんみんなを見送ったあとは、紀子と、俺だけになった。紀子がタクシーを呼ぶと言うので、俺は思い切って、声をかける。


「俺、今日車だから、送ってってやるよ。タクシーもったいねえだろ」


「あー、正直ありがたい。今ほんとうちカツカツで、車もないしお金もないから。いいの?」


「いいともさ」


俺は斎場の外駐車場に止めた車を、紀子の待つエントランスまで回してくると、助手席に紀子を乗せた。そのまま、紀子の家の方面に向かって、走り出す。


暗い夜道を走りながら、しぜんと頭は中学時代のことを思い出す。斎藤紀子と俺は、美術部に所属し、いつもコンクールの賞争いをしていたのだった。


俺は中学生のころ、絵描きになりたかった。そのくらい、絵は一日中でも描いていられた。小学生のころ、いっぱいいっぱい周りの大人たちから褒められて、天狗の鼻はぐんぐん伸びた。その鼻を、へしおってくれたのが、中学生になって美術部で出会った、同い年の紀子だったのだ。


俺の絵もコンクールでは入賞したが、かならず金賞やグランプリをかっさらっていくのが、斎藤紀子という女だった。悔しさに歯がみし、死ぬほどムカつき、絶対お前を超えてやると何度も思っていた。だが熱くなる俺とは打って変わり、紀子はいつも冷静で、クールで、俺のことなど歯牙にもかけず、どこ吹く風といった調子で絵を描きまくっていた。


俺が、絵描きの道をあきらめて、高校卒業ののちすぐにいまの会社で働き始めたのは、もちろん家に金がなかったせいもあるが、紀子に一度も勝てなかったからだ。紀子が美大に行って、のちにイラストレーターになったという噂を聞いたときには、悔しい反面ほっとしていた。


俺に叶えられなかった夢を、好きな女が叶えてくれるというのなら、それもまたよいじゃないかと思ったのだ。そういう引きさがり方を、男らしいと、自分でも思った。


中学高校とくすぶった紀子への思いは、今の職場で働きはじめてから、燃える火がだんだん熾火になるように、やけどがいつしか治っていくように、徐々におさまっていった。


そして二十四歳のころ、職場に営業に来た酒屋のおやじから、娘を紹介され、気が合ったのでとんとん拍子に結婚した。息子ももうけたし、家族は安泰だ。俺が仕事を続けていけるかぎり、何の問題もない。だが。だが――紀子のほうは。


前方の車の赤く光るテールランプを見ながら、俺は紀子に聞いた。


「絵、どうしてやめたのか、訊いてもいいか?」


「うん。実はさ、ストレスから手の病気になったんだ。指が上手くうごかなくなってね。神経が利かなくなっちゃった」


俺は心のうちで低くうめいた。あの、神技のような筆を持つ大事な指を、なぜ彼女が取り上げられなければならないのか!まったくこの世には神も仏もねえな。


「それは、辛かっただろ」


俺の気持ちが言葉ににじんだのを感じ取ったのか、紀子がほほ笑む。


「そうだね。だいぶ、絶望したかなあ。こっちに戻ってきたのは、母の介護ももちろんあるんだけど、もう絵では食べられないから。こっち来てまだそんなに経ってないし、生活に慣れたら、またぼちぼち、普通の仕事探そうと思ってる。でもさ、言わせてもらうけど、山原こそ、絵はもう描かないの」


いきなり俺の話になって、驚いた。


「仕事忙しくて、嫁も息子も食わせないといけないから、絵どころじゃねえよ」


「そっか、好きだったのにな、山原の絵」


心臓が絞りあげられるように引きつれるのを感じた。いま、お前、そこで俺にそんな言葉を言うのかよ、と思った。


嬉しい気持ちと、複雑な気持ちが、胸を交互に満たす。


「あ」


急に紀子が声をあげた。


「夜桜。満開だよ、そこ。ちょっと車停めて」


車はタイヤの音をきしませながら止まる。ハザードランプをつけて、車から二人で降りた。町立公園のすぐそばで、大ぶりの枝の桜の木が、たわわな花をつけて、どっしりと立っていた。


「きれいだね」


「うん、きれいだ」


お互いに言い合いながら、次の言葉を探す。先に口を開いたのは、紀子だった。


「あたしさ、いまこんなにきれいな桜見ても、もう自分の手で、それを絵にすることが叶わないんだよね」


ぽつりと言ったその言葉は、あっという間に夜風にかき消えた。俺は言葉を見つけられずに、立ちつくす。


いま、彼女を抱きしめたらどうなる、と一瞬不埒なことを考えて、あわてて頭の中からその妄想を追い払った。


紀子が言った。


「山原に、いつか、私の代わりに、また絵を描いてほしいなあ」


その言葉は、昔俺が紀子に思っていた気持ちそのままだった。俺は夢をもう叶えられないから、紀子に絵を描き続けてほしい、と思っていた気持ちそのものだった。


「約束するよ」


言葉がやっと喉の奥から出た。


「約束する」


その言葉を聞いて、紀子は、まるで桜の花のようにはかない笑顔を見せた。


紀子を家に送り届け、俺も自宅に帰った。連絡先の交換もしなかった。俺は、二階に上がると、喪服も脱がないままに、押し入れを開けて、中学時代使っていたキャンバスノートを引っ張り出した。


風景画や静物画に混ざって、一枚だけ、少女の横顔を描いたデッサンが出てきた。すぐに、紀子とお互いをモデルにして描きあった在りし日のことを思い出した。


俺は、なんどもなんどもキャンバスノートのページをめくり、そのざらりとした質感と、当時の絵に向かっていた気持ちを、その夜のあいだじゅう、ずっとかみしめていた。

いつも温かい応援をありがとうございます。記事がお気に召したらサポートいただけますと大変嬉しいです。いただいたサポ―トで資料本やほしかった本を買わせていただきます。