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賞に応募しない作家人生もありなんじゃないか

今日はふっと思ったことを書くので、まとまらないかもしれません。

芸術(今回は小説ね)を趣味としてたしなむうえで「なにがなんでもプロになる!」「商業で小説を出して売ってやる!」と意気込んでがんばるのは素敵なことだと思います。

だけど、市販されている小説だけが価値がある、というのは、私は貧しい考え方だと思います。

こういう考え方は人それぞれですが、たとえば野球を例にとって考えたときに、プロになれるのは野球をやっている人の人口のうち、ほんのわずかにすぎないですよね。

だからといって、プロになれなかった人たち(ならなかった人たち)の野球人生がだめなものか、価値のないものか、といったら決してそうじゃないと思う。

それぞれの人に、それぞれの野球についての思い出や現在進行形のドラマがあるわけです。

ある人は、小学生の野球コーチになって、指導をしたり。ある人は職場の仲間と草野球チームを組んで楽しんだり。またある人は球団のファンとなって、ビールを飲みつつ球場で試合を見るのを一番の楽しみとしていたり。

そんな楽しみ方も、尊いことだなと私は思います。

うちの母方の祖父は、書道がとても上手でしたが、賞に出したりはしませんでした。一方父方の伯父は、40歳から書道や俳句をはじめ、いつも賞に応募してはがんばっています。

この場合ですが、賞に出さなかったからといって、祖父が書道を愛していなかったかといえば、そうじゃないと思います。たんに、祖父と伯父の違いは、自分なりに楽しむか、人との切磋琢磨の中で楽しむかに過ぎなかったと思うのですよ。

小説「冬嵐」を書いたときに、この小説はだいぶ個人的な思いの清算のために書こう、と最初から思っていたため、賞に出すつもりはありませんでした。

私にはわかるのですが、たぶん賞に出しても、はじかれるタイプの作品だったのではないかと思います(トラウマものだし、ウエットすぎるし、理由はいくらでも探せます)

でも、賞に出さないことを決めて書いたために、すごく、自分の書きたいことぜんぶ詰め込んで書けまして、とってもいい執筆体験ができたのですね。本になってからも温かいご感想いただけて、ほっこりできました。

商業小説の最適解に近づくことを目指して書くと、私の場合上手く書けなくなってしまうようです。

それよりは、自分の書きたいものを、書きたいときに、書きたいように書きたい。

こんなわがままが通るのは、普段日中働いて食いぶちを稼いでいるから。そして小説執筆も個人誌作成も趣味だからです。

小説を書くことは、精神や心の領域を大きく扱うことです。それを、ビジネスとして、お金に換えていくということは、私はある種の危険も伴うのではないかな、と少し危惧する面もあります。

こうしてnoteに駄文を書くことは私の最高のセラピーですが、もし文を書くことが、自分の裁量や自由でなくなり「仕事」になってしまったら、文章を書いてそれでも癒されるのか、私はちょっと不安です。

タイトル通りですが「講談社児童文学新人賞」に向けて、こういう小説を書いてみよう、とか「太宰治賞」用に、こういう小説を書こう、としていったときに、そこには何か、計算というか、選考を通りたいゆえの、思惑が乗ってくるような気がするのです。

私はいまその計算や研究目線や思惑がとても邪魔なので、どこ向けでもない、自分がいちばん書きたいものを、とにかく自由に書いてみよう、そうする期間を、長めに設けようと思っています。

そうすることで、自分の心は、小説を書くという作業を通して、真実救済されるように思えるのです。






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