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⑭【影山道子 先生】宝生能楽師をもっと身近に。

企画初!
女流能楽師にインタビュー!

扇好きがきっかけで能楽師になったという影山道子先生。
今回の秋の女流能では「楊貴妃」を勤められます。
女性ならではの視点から能の世界を教えていただきました。
影山先生にとっての「つなぐ」とは?

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ーー影山先生が「受け継いできたもの」は何ですか。
こちらの能面です。私が藝大に通っていたとき、三川泉先生のお弟子さんのお嬢さんが藝大の彫刻科に通っていまして、その方が初めて打った能面なんです。先生が、良い面だから手に入れておいた方がいいのではないかとおっしゃって、私は迷っていたのですが、母が「これから先使うだろうから。」と言ってくれたので、彼女の面を購入させていただくことになりました。

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舞台でも使える小面だと言われたくらい、良い出来です。その後、彼女は増などいろんな面を打っていたので、彼女が打った面を持っている方は結構多いんです。
初め、塗りが綺麗なうちは、舞台でツレや「胡蝶」のシテを勤めるときにも使ったことがありましたが、今は稽古用ですね。能楽師は、稽古用の能面も必要なんです。この面を稽古用に使うのはもったいないと言われましたが、良いものを着けながら稽古するのはやっぱり良いんですよね。
でも、そうしたらかなり使い込んでしまった(笑)。もう50年間使っています。
塗りや小さい傷などは、この面を作ってくれた彼女にたまに直してもらってたんです。でも、彼女が4~5年前に亡くなってからは、それっきり直すことはなくなってしまいました。

ーー初めて面をつけて舞ったときはいかがでしたか。
藝大在学中に、お素人さんの会でツレを勤めたときに、私は初めて能装束を着て面をつけました。先生は、私について「装束が似合わなかったら、この子をやめさせよう。」とおっしゃっていたそうです。私は装束が似合うから続けて良い、と言われたのでよかったですが、恐ろしいですね(笑)。
装束が似合う、似合わないというのは能楽界でよく言われますね。普通のお洋服でもそれは同じことだと思います。

その子の将来のために、はっきり言ってくださるのが良いですよね。装束が似合わず観客に笑われるようでは、能楽師ではなく違う道に進んだ方がその子のためになるのではないかと。後から先生のそのお考えを聞いて、偉い人だなと思いました。特に私は女の子だったので能楽師の道が合わないのに続けることは厳しかったと思います。そのころは女性でプロの能楽師になる人は多くありませんでした。

――影山先生が能楽師になったきっかけを教えてください。
私が小さいころ、父の仕事の関係で、京都に近いところに住んでいました。そのときに近所にいらしたおばあさまが地唄舞をなさっていて、扇を扱う方だったんです。女の子だからと遊びに呼んでくださって、小ぶりの扇を借りてよく遊んでいました。私、扇が大好きで、いつもそばにあって当然というくらいでした。
小学生になったときに転居したんですが、たまたま近くに能の嘱託をされている方がいらっしゃいました。そこで母が謡や仕舞を習って習っていたので、一緒に連れていかれたんです。私は教えなくても扇の扱い方を知っていたので、先生に喜ばれましたね。

私はミッション系の小学校に通っていまして、その学校の総長がフランス人だったんです。私が仕舞を舞えると知って、ことあるごとに所望されて舞っていました。とても褒めてもらいましたね。母と嘱託の方が二人で謡いに来てくれて、私が講堂で舞ったこともありました。能の先生からは「狭いところで稽古しているわりには、みっちゃんは広いところでも舞えるのね。」と言われました。懐かしい思い出です。
その影響か、近所の女の子たちも仕舞の稽古を始めるようになったのですが、その子たちは学校で試験があると稽古に来なくなってしまう。先生から「あなたは試験大丈夫なの?」と聞かれながら、私は稽古に行っていました。

あの時代、女の子は大学を出ても会社で任されるのはお茶汲みくらい。会社に勤めるのは結婚までの腰掛だと思われていた時代です。よっぽど文学的に才能があるとか、外国語が達者で通訳ができる人は目標をもって大学に行くんでしょうけど、私はたとえ文学部に入っても、何もすることがない状態でした。そんな時、東京藝術大学では能を学ぶ学科があるというので、藝大に入りました。
不思議ですよね。そうやって今まで続いちゃうんですから。

ーー今は女性の能楽師として活躍されている方が多いですか。
そうですね、多いです。昔はもっと少なくて、私を入れて7~8人くらいだったんじゃないかと思います。結婚して辞めていく人もいれば、地元に戻る人もいました。だいたい玄人の家の子でない限り能楽師の道に入るのは難しいですし、特に女の子で職分になろうとする方は多くないです。

私が藝大大学院を修了してすぐに、先輩から白百合女子大学の能楽サークルの指導を託されました。このサークルができてまだ3~4年くらいのときです。月に1~2回の仕舞と謡の稽古のため、仙川にあるキャンパスまで通っておりました。春休み、夏休みの川口湖畔での合宿にも同伴し、体育会系サークル並みにビシビシ指導して、私が一番疲れていました。(笑)
でも学生も頑張っていて、OG達も必ず応援に駆けつけてくれました。
卒業後、今もお稽古を続けている人たちもいます!

今のような女流能の公演も、年に1回はありました。
宝生会の公演情報誌『能LIFE』10~12月号の女流能特集にも写真が載っている宝生公惠さん(現宗家の叔母にあたる)には大変お世話になりました。私は公惠先生のお付きとして、いつも一緒に地方公演に行っていました。

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年上の先生方が能を勤めているときに、若手の私たちは仕舞をしたりツレをしたり。私の場合、ツレはなかったですが。背が高いので、ツレにはしづらかったようです。(笑)

ーー心に残っている言葉やアドバイスを教えてください。
先生からの、「日常生活がそのまま舞台に出るよ。」というお言葉が心に残っております。立ち居振る舞いや、しゃべっているとき、食事のときも背筋を伸ばしてと言われました。歩く姿も大事ですよね。「日常生活、即舞台」と昔から言われています。

もう一つは、「稽古はどんどんしないとだめだ。」と。能は型を組み合わせて舞を舞うわけですから、型をしてます!と分かってしまう状態ではだめです。先生からは「自分の身体を通して自然体になるように稽古しなさい。そうしないと舞台として観られない。」と言われました。
たとえば、手を下げるときには「手の重さを考えなさい。」と言われました。自分の力で下げようとしないで、手が自然に下がる重さがあるはずだからと。能って難しいと思いましたね。若いころは本当に大変でした。

私の場合、師事していたのが男性の先生でした。先生のした型がいくら良くても、自分の身体で同じことをしたら変わってしまう。どうすれば先生のようになれるのか幾度も考えました。そのまま真似だけしても良いものにはならない。

声も、「声で謡うんじゃないよ。」「声はいらないから。」と言われました。息を出して、その上に声が乗るようにして、能楽堂の壁まで台詞が聞こえるように。
面をつけた状態で声を出すと、面の中で音が反響してしまいます。そのため、能面の口元から息をひゅっと通して謡うと、ちゃんと台詞として聞こえる。先生が仰っていたのはこういうことかと思いました。

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ーー影山先生の現在のお弟子さんは女性の方が多いですか。
そうですね、女性が多いです。私が女性に教えるときは「あまり感情を入れないで。」と言います。悲しく謡うときは少し声のトーンを低くするとか、晴れやかなときは声を張り上げるとか、その程度です。その方が、聴いている人にとって押しつけがましくないと思います。
私は最初、能をするのには浄瑠璃のお人形さんみたいになればいいのね!と思っていました。
浄瑠璃は高校のころから好きだったんです。本当に人形が生きていて、魂があるような感じがします。能でも、自分の身体をああいうふうに使えば良いのかなと思います。

世阿弥は「離見の見」と表現していますが、舞台に立ったとき、自分を外から見るような感覚をもっていないといけない。浄瑠璃を観ていて、これがそうなんじゃないかと思いました。600年以上も昔の人がそういうことをちゃんと考えていたのですから、すごいことですよね。

――今回の女流能では「楊貴妃」を勤められますが、お稽古をされていてどのような印象ですか。
とりとめもなく難しいと思いました。唐帝は楊貴妃にどうしても会いたくて、配下の方士に楊貴妃の行方を探させて、黄泉の国の太真殿というところで楊貴妃と再会するというストーリーです。

「楊貴妃」はとても特殊な能ですよね。楊貴妃の魂だけが残っていて、唐帝との懐かしい昔を思い出して舞う。静かで動きがないんですよ。前半はほとんど動かない。後半は形見のかんざしをつけて、懐かしさを舞ってみせるのだけれど、ただ華やかなだけでもいけないし、静かであってもどこかで毅然としないといけない。
絶世の美女である楊貴妃が人間臭いと違和感がありますよね。そういう意味でも、この曲を勤めるのは大変だなと思いました。

とにかく難しくて大変なので、今までやってきたことを自然体でやるしかないかなと思います。師匠の教えをそのまま生かさないと、先生に怒られそうです。「できてないねー!その歳になっても。」って。(笑)
私が今まで稽古してきたことのプロセスを、少しずつ観ていただけたらと思います。

この曲の作者の金春禅竹は、「隅田川」などもそうですが、他の曲よりも深い感情を描いていますよね。世阿弥は夢幻能で有名ですが、禅竹は人間の精神を掘り下げたところに重きを置いている印象です。
(編集部注※「隅田川」は正しくは十郎元雅の作とされています。)

「隅田川」は私は5~6年前に勤めました。重かったですね。怒られながらひたすら稽古しました。舞台写真を撮影してくださったカメラマンの方が「ただ座しているだけじゃなくてそこに凄みがあって良かったよね。」と褒めてくださって嬉しかったのを覚えています。

女流能楽師が勤める曲は、ジャンルが限られてしまうんです。例えば、あんまり天狗物は出ない。どっしりとした雰囲気を出さないといけないような曲はできないですね。

それから、直面の曲もあまりしません。直面の役は男の人が多いですよね、例えば「高野物狂」とか。私は女流能でシテが直面の曲を演じたことはありません。
そういう曲は女性ではあまりしないというか、させないんです。観ていて違和感を覚えてしまって、純粋に能を観る雰囲気ではなくなってしまうことがあるからだと思います。

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――お客様にメッセージをお願いします。
秋の女流能、最初の「経政」では太刀を使います。修羅物で動きも多いので面白いと思います。それから、動きの少ない「楊貴妃」。その後は「鳥追」で現在物。最後は「黒塚」、安達ケ原の鬼女の話。
このような構成で、初めと終わりは動きがあって面白いですよ。真ん中が大変です(笑)。

私は小さいころから扇を遊び道具のようにして使っていたので、それがきっかけで能楽師になりました。
でも、生まれ変わったら能はしたくありません。男性の骨格を通して完成された能の型ですから、女性が演じるのにはやはり無理が生じます。若い頃から私は荒い曲も勤めてきたので、よく体を壊しました。何回も置き鍼をしたまま舞台に出たことがあります。先生から「大丈夫か?」と聞かれて「大丈夫じゃありません。」と言うと、「でも当日代わる人いないから!」って。
やはりプロですから、身体の調子が良くないからといってやれないとは言えないんです。今は年齢による不調もありますが、観てくださる方に無様な格好はお見せできないので、とにかく稽古しております。

肉体の衰えを自覚して、年齢なりのやり方をしろと世阿弥も書き残していますが…。一つの事を続けるというのは大変なことです。ただ、やるからにはきちんと勤めなければと思います。プロの宿命です。

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日時:9月17日(金)、インタビュー場所:宝生能楽堂見所、撮影場所:宝生能楽堂見所、10月秋の女流能に向けて。


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影山道子 Kageyama Michiko
宝生流シテ方能楽師
1966年入門。18代宗家宝生英雄に師事。初舞台「熊野」ツレ(1970年)。初シテ「羽衣」(1972年)。「石橋」(2005年)、「乱」(1988年)を披演。

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――おまけ話
面を持ち運ぶとき、桐の箱だと持ち運びが難しいので、影山先生は東急ハンズで買った道具入れに入れているそうです!ずっと愛用しているとのこと。

ぴったりで驚きました!

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