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⑲【小林晋也 先生】宝生流能楽師をもっと身近に。

今回の月浪能特別会で「翁」を披く小林晋也先生。
「翁」だけでなく「熊野」や「正尊」の見どころ、解釈なども詳しくお話いただきました。
晋也先生にとって「つなぐ」とは?

――晋也先生が「受け継いできたもの」は何ですか。
祖父(小林一師)と父(小林与志郎師)から譲り受けた袴です。

僕が高校生のとき、父から楽屋働きをするように言われたのですが、当時は袴を持っていなかったので、祖父が「自分も新調するから晋也のも一緒に作ってやるよ。」と言ってくれまして。今日持って来たのがそのときに祖父が新しく作った袴です。

小林一師の袴

この袴には「小林一」と名前が刺繍されていますので、身に着けるときには引き継いでいることを実感しますね。

 結局、祖父はこの袴を作った2・3年後に亡くなりました。父は身長が180cmほどありますが、祖父はそこまで背が高くなかったため、父が「お前がじいちゃんのを着ろ。」と言うので僕が紋付から何やら受け継ぎました。

20歳くらいからこの袴を舞袴として使っています。40歳くらいまで使っていると、さすがにくたびれてきまして。そのことを父にぼやきましたら、今から3~4年前くらいに「じゃあ俺のをやるよ。」ということでもらったのがこちらの袴です。
舞囃子や仕舞の特別なときだけ履いています。

小林与志郎師の袴

父が舞用に若いころに作ったそうです。父のだと僕には寸法が大きいので寸法を詰めてもらったんですが、そのときに業者さんに見ていただいたら、落款が2つ付いていました。

後になって知りましたが、この落款が2つ付いているというのは極上のものだそうです。織屋さんに「これはすごくいいものですよ。デパートで買ったら50万円くらいするかもしれないものです。」と言われました。そのことを父に言ったら、なんだそんなにいいモノだったんだと(笑)

――お祖父さまはどのような方でしたか。
僕が生まれる前には、祖父は能を舞うのを引退しており、舞台に出るのは地謡のみでしたね。

祖父の家に行くと、「孫が来た。晋也が来た。」というような感じで出迎えてくれまして、僕がお謡のお稽古をやらないと言ったら、祖父は「お菓子あげるから…。」とお菓子を持ってきてくれたりしました(笑)。祖父は怒鳴ったりひっぱたいたりなど厳しい稽古は一切なかったです。高校生になり卒業後に宗家の内弟子になると言ったら嬉しそうに、自分は近藤乾三先生の内弟子をしていたんだぞと、話してくれました。
高校3年生の夏休みに亡くなったので、結局内弟子入りした姿は見せられませんでしたが…。高校生のいつだったか、忘れもしない今はない銀座能楽堂で、祖父と父の御素人会の素謡「竹生島」の地謡。3人並んで舞台に出た最初で最後の舞台でした。

――小さいとき、お父様の舞台は客席でご覧になられましたか。
僕や小倉健太郎さん、伸二郎さん(※第8回インタビュー記事)、水上優さん(※第9回)など、みんな親子で能役者をやっていますよね。だいたいどこも一緒だと思いますけど、お母さんのお腹の中にいるころから、お父さんの舞台に行っているでしょうし。僕も3・4歳になると手を引かれながら年に数回能楽堂に来ていました。


僕は子供のころからキラキラ光る石とか光り物が大好きで、幼稚園くらいのときに、客席で母と観ていたら、役者がつけている天冠(※「羽衣」などで使用する冠)を見て、「僕もああいうキラキラしたのをつけたい。」と言ったそうなんです。母が「じゃあ、お父さんに言ってあげるね。」というところから始まったのよ、と言われましたが僕本人は全然覚えていないです(笑)。

「羽衣」の天冠


――親や先輩から言われて大事にしている言葉やアドバイスを教えてください。
僕が高校に入ったときに近藤乾之助先生に師事させていただくようになりまして、先生が常々おっしゃっていたのが、「謡は息だよ。」と。つまり、呼吸法ですね。先生ご自身は「僕は声量があまりないんだよね。」と気にされていましたが、声量が小さくても息にのせた声というのはすーっと澄み渡って文字として伝わるんです。

 それを特に実感したのは、今から15年くらい前に高崎で公演があって、先生に呼んで頂いて私も行ったんですが、高崎駅から地元の高校生が乗ってきて車内が騒がしかったんですよ。でも、僕の隣に座っていた先生の声が騒がしい中でもはっきり分かったんです。そのときに「息」が大事だと猶更に気づきました。

父からは「まずは下手になれ。」とずっと言われています。能の道に入った最初の頃はみんな「ただの人」なんですよ。16代宗家の宝生九郎先生が「只人」と書いておられます。ただの人から一生懸命お稽古をすると「下手な人」になる。下手にならなきゃ上手になれないということですよね。

 御狂言方の三世山本東次郎先生のお言葉には、「乱れて盛んになるよりは、むしろ固く守って滅びよ」というのがあります。僕は、乱れるということは芸の本質を違えるってことだと思うんですよね。大切なのは先人の教えであって、先生が「こうなんだよ。」と言ったら「こうだ!」っていうものを謡おうと努力するし、舞おうと努力する。それが「乱れていない」と思うんです。なので、芸質は絶対変えない。やるべき芸は淡々とやる。教えを守り、能は能としてやる。それであって新作したり、他の芸能とコラボレーションしたりしての盛んになるのであればいいんじゃないかなと。


――今回の月浪能特別会で「翁」を勤められますが、このお役をいただいてどういう印象をお持ちになりましたか。
昔の宝生会では単純に年功序列で披きものをやっていましたが、それを今の宗家の和英先生が「この人ならこの曲を勤めてもよい。」という判断で決めていらっしゃるとのことで、最近は年功序列に関係なくやっています。
僕としては「翁」を披くのは2~3年後かなと思っていましたが、去年、年間の配役の掲示を見て「なんか俺だな。」と(笑)。

 2008年に「道成寺」を披いた後、披露宴で今井泰男先生から一言、「こいつは何も間違えないで終わったんだろ。なんとか終わればいいんだよ。そういうもんだ、披きものは。」とおっしゃっていただきましたが、そのときはこの言葉の意味が分かっていませんでした。

 その7年後、今でもトラウマになっているんですけど、「乱」を披かせていただいたときに、幕を揚げるところでいきなり間違えまして。その後は地獄の40分間を過ごしました。地頭に座っていた父が恐ろしい顔でこっちを見ているんですよ。「終わったな…。」と思いましたね。
舞台が終わって楽屋でのあいさつのときに、父からバカヤローの一言のみでひっぱたかれました。

 そのときに身に染みて分かったのが今井泰男先生のあの一言です。上手いも下手もない。とにかく間違えない。それが披きものなんじゃないかなと思いました。

 披きものは僕らにとって課題曲ですよね。「あれ、左足?いや、右からだよな…。」というような、そういうひっかけがちょっとずつあって。それをいつも以上の緊張感の中で、平常心を保ち間違えることなくやり果せる。それが絶対必要だなと思います。

――「翁」という曲について先生ならではの解釈を教えてください。
能LIFEの1月に書かせていただきましたが、「高砂」や「弓八幡」「志賀」といった神舞物は「演じる」わけですよね。例えば「高砂」は住吉明神を演じたり、「弓八幡」は八幡様とか。それに対して「翁」って、どこの神様というのではなくて、ただ単に神様なだけですよ。だから「演じる」のではなくて自分が「神」になる。「神懸かる」ということだと思います。

 ある種、「翁」は神事、儀礼的”能にして能に非ず”はそういった処もあるのでしょうか?!その雰囲気が伝われば嬉しいです。天下泰平国土安穏と言っていたり。観に来られたお客様が神社で感じるような神々しさや厳かさ、おめでたさや御利益とかを感じ取っていただけたらと思っています。


――別火精進は始められていますか。
舞台の一週間前に始めようかなと思っておりまして、人によっては2週間とか3週間の方もいるんですけど、1週間前じゃないとおせち食べられないな…ということで(笑)。年明けて元日過ぎくらいから始めるつもりです。

 今回、僕も別火精進について調べたら、火から穢れが伝わるんだそうですね。30~40年前の解説本には、現代では火鉢を使わないけど、翁の披きにあたった役者は家族とは別に自分でお湯を沸かしてカップラーメンを食べたりして過ごす、とか書いてあって(笑)。
僕は実家暮らしで親と一緒にいますけど、1週間くらい自炊しようかと思います。

 ――別火精進の間はお酒を飲むことやお肉を食べることはいけないと聞いたことがありますが。
僕はたまたま知り合いに宮司さんがいまして、別火精進について聞いてみたら、神道的には精進となると、獣の肉を避けることはしますけど、清め的なことはあまり気にすることもないんだそうです。
※所説あります。

女人禁制はありますが。禊などもあるのかなと思い、舞台の前には、その宮司さんのところに伺おうと考えております。 

 お酒は清めになるから飲んで良いという人もいますけど(笑)、僕はお酒を断ちたいと思います。
「道成寺」のときは一か月間お酒を飲まなかったんですよ。なので、今のところはお酒は飲まないようにしていて。1月の舞台が終わった後にぱーっと飲もうかなと思います。

――1月月浪能の「熊野」はどのような曲か教えてください。
「熊野松風は米の飯」と言われるくらい、何度観ても飽きないよ、という有名な曲です。
侍女が持ってきた文を読んで、母が余命僅かと知り悲しみに打ちひしがれているシテの熊野が登場します。
熊野は平宗盛に「ひとさし舞を舞え」と命じられ、舞を舞うわけですよね。熊野にしてみれば、場がしらけないように一生懸命悲しみを抑えながら華やかに優雅に舞って。
ふっと桜の花びらが散るのを見て、熊野が和歌を詠みます。その和歌をそっと宗盛に差し上げて、それを読んだ宗盛が「ああ、こんな悲しい想いをしてたのか。」と言って熊野に暇を取らせます。今回は膝行三段之舞の小書付きで和歌のシーンがより強調されます。

 全体的に見どころと聴きどころがあります。一つずつ流れを追っていくと、初めて能をご覧になられる方でも、解説を見ながら、今この場面なんだっていうのを楽しめると思います。途中で牛車の作り物が出てきて、京都の市中を巡る場面もありますので、お客様も一緒に京都を想像していただけたら幸いです。

――「正尊」の見どころはいかがですか。
「正尊」はとにかく観てれば分かるよ、という感じ(笑)。派手で賑やかでね。
源頼朝の配下である土佐坊正尊が咄嗟に起請文(※神仏への誓いの言葉を書き記した文書のこと)を読む最初の場面は、気迫があって見どころです。
子方が静御前を演じる場面もお見逃しなく。お酌したり、可愛らしく舞ったりします。
間狂言では、寸劇的にごちゃごちゃ動き回りますので、その様子が面白いですね。

後半ではいよいよ橋掛かりに正尊が若い衆を連れてやってきてチャンバラが始まります。動きは決まっていますけど、流れは決まってないんです。「お前と俺がここで切り合うから…。」とか、その都度流れを考えて作ります。
普段のチャンバラは必ず1対多数なんですが、この曲だけ唯一4対6のチーム戦です。このチャンバラにはいろいろ細かいネタを仕込んでいて、たまに同士討ちをするんですよ。夜襲をかけるので、お互い真っ暗で顔が見えないから、敵と思ったら仲間だったみたいな。そういうのを入れていくので、注目して観ていただけたらと思います。
最後は正尊と弁慶の場面。長刀と長刀で打ち合うのはこの曲だけです。



――最後にお客様に向けてメッセージをお願いします。
能を観ることは敷居が高いと言われたりしますが、「映画館に映画を見に行くような気持ちで能楽堂に足をお運びください。」と能楽協会理事長をしていらした人間国宝の野村萬先生がおっしゃったそうです。良い格好でないといけないというのはありませんし、だからといってごみ捨てに行くような部屋着の格好だとどうかなと思いますが、映画館に行くくらいの気楽さでいいんですよ。
それに最初から最後まで全部分かろうと無理にしない。能は色々な要素が詰まった総合芸術。笛の音が好いなあとか、あのユッタリ感がリラックスするとか、何でもいいので先ずは感じたままに。昔、友達を自分がツレをしている公演に誘って観に来てくれて、終演後に「スゴイ好かった!!あの衣装」と。その友達、服飾の専門学校生でした。

もう一つは、木谷哲也くんだったかな。彼は「能はやってみた方が楽しい」と言っていましたが、習っている人は理解が深まるんですよね。言っていることもだんだん分かってくるし。何より能のお稽古っていうのは小さなお子様の情操教育になったり、大人の方なら生涯学習、健康維持とか。老若男女問わず、また全身不随の方や全盲の方もなされていたり、どなたでもお稽古できます。習うこともするし観にも行くという人にぜひぜひなっていただけたらと思います。

日時:12月22日(水)、インタビュー場所:宝生能楽堂ロビー、撮影場所:宝生能楽堂ロビー、2022年1月月浪能特別会に向けて。

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小林晋也 Kobayashi Shinya
シテ方宝生流能楽師
昭和49(1974)年、東京生まれ。小林与志郎(シテ方宝生流)の長男。1981年入門。18代宗家宝生英雄、19代宗家宝生英照、近藤乾之助、父与志郎に師事。初舞台「鞍馬天狗」花見(1981年)。初シテ「加茂」(2004年)。「千歳」(1997年)、「石橋」(2005年)、「道成寺」(2008年)、「乱」(2015年)を披演。


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――おまけ話
今もキラキラしたものが好きだという晋也先生。
身に着けているのは、書生に入って初めての夏休みに池袋のデパートで見つけたお気に入りの指輪なんだそうです。毎日のようにこの指輪を着けているんだとか。

【能における「ありがたき」の意味】
晋也先生:昔、高校時代の古典の授業で「ありがとう」という言葉が平安時代以降くらいから「感謝」になってきたというのを習ったはず?!なんです。「ありがとう」は「有難う」と書くでしょ。なので「ありえない」ことなんですよ。

 「ありがとう」が「感謝」の意味になったきっかけというのが、もともとは神様らしいです。例えば雷が落ちて、近くで遊んでいた子供が倒れたら、死んだと思うじゃないですか。一生懸命神様に祈るとたまには息を吹き返したり。死んでしまったと思ったのが生き返る。ありえないことが起きるわけですよ。そこで感謝の気持ちとだんだん結びつくようになったらしいんですよね。

そのことを古典の授業で習って、ふっと思ったのが能の詞章なんです。
そのころの絶対権力者って神、仏に等しいわけですよ。気に食わなかったら殺されちゃいますし。それだけ絶対的な人間に対してだから「ありがとう」なんじゃないかなと。

 例えば盛久(頼朝へとは言わず観音様に対してかもしれませんが)や11月五雲能「花筐」などでは神仏に対するくらい(帝は現人神ではありますが)の感謝の気持ちで使っているんじゃないかって思います。

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