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海を愛して 第3話


 突然の告白とも取れる羽美の発言に、俺は大いに動揺した。
 暑さからの汗なのか動揺による汗なのか、分からないほど、額から首筋にいくつもの汗の雫が流れていく。

「私、ずっと健司兄さんの事が気になって……」

 そう言って、羽美は自分の唇に指先をそっと当てた。その様を見て、俺は更に動揺をする。

「……健司兄さん……」

 淡い色をした瞳を潤ませ、俺をじっと見つめる。ぽってりとした色付いた果実の様な唇に目を奪われ、自然と吸い寄せられる。重なったそれは、熟した果実の様に甘やかで魅惑的で離れ難い。
 気が付けば夢中になっていた俺は、ある異変に気が付いた。
 俺の腕に、何か柔らかい繊維が絡みついている……。
 薄っすら目を開けると、瞳を閉じている羽美の美しい顔が見て取れる。
 そして……。

「……うッ……!!」

 全身から血の気が引いていくように、意識が遠退きそうになるのを堪え、どうにか目を開け、羽美の身体をそっと離そうとした、その時。

「だめ。逃げないで?私の獲物……」

「……何、を……」

 俺の身体は、羽美の長い髪の毛に巻き付かれていた。
 どんどんと、意識が遠のく感覚。
 一体、何が起きてるんだ……。

「海で助けられたあの日、私は初めての狩をする事になっていた……。でも、どういう訳か、私は獲物であった筈の貴方に助けられた……。お陰で、私は貴方以外に狩が出来なくなってしまった……」

 羽美の声が辛うじて聞き取れる。
 狩?獲物って? 

「この土地に伝わる伝説、健司兄さんは知らないの?」

「……でん、せ……つ……?」

「沿岸で女がひとり佇んでいる。その女に声を掛けると、その女は美しく微笑み、男たち皆、その女の虜になるの。そして、夢中になっていると、気が付けば全ての生き血を吸い取られる……」

 羽美の話に、朦朧とする意識の中で、祖母が子供の頃に話していた事を思い出す。

「……海、姫……なの、か……?」

 海姫様。
 俺の返答に、羽美は美しい微笑みを俺に向けた。

「ええ、そうよ。貴方は、子供の頃の私の獲物だった。でも、今、貴方は私のお婿さんになるのよ?なぜか、わかる?」

 俺は細い息を細かく繰り返しながら、小さく首を左右に振った。まだ血を抜かれている感覚がある。このままでは、俺は……。

「私の体は、もうただの海姫では無くなってしまった……。貴方に口づけされた、あの日から。人と妖怪の間の生き物になってしまった。人にも、妖怪にもなれない……。その責任を、貴方は取るべきだと、思わない?」

 一体、この女は何を言っているのだろうか……。

「今から、貴方の血を全部抜いて、私の血を分けてあげる。そうすれば、貴方は私と同じ、人間でも妖怪でもない、ただの人の形をした生き物になるの……。二人で、一生一緒に生きていくのよ……?」

 そんなこと、あってたまるか!
 心の底で叫ぶと、突然、服の中の胸元が熱くなるのが分かった。
 どうにか左手を動かして、胸に手を当てる。やっぱり、と俺は思った。
 祖母がくれたガラス玉が、熱くなっている。朦朧とする意識の中、幼い頃に教わった祖母の言葉を思い出す。
 俺はガラス玉を服越しに握りしめると、祖母に教わった言葉を、掠れる声で呟いた。
 するの突然、羽美の美しい顔が歪み、耳の奥がつん裂くような声にならない声が響き渡った。それに被せるように、懐かしくも頼もしい声が脳の奥に響く。

『お前に、私の孫を渡すわけには行かないよ!』

 ばあちゃん……。
 意識が遠のく中で、俺は半透明な羽美と俺を守るように対峙する半透明な祖母の姿を見たのを最後に、完全に意識を失った。

 夢を見た。
 中学生の頃の夢。
 俺はまるで、俯瞰して見る様に、その頃に起きた出来事を見ていた。
 そうだ、なんで忘れていたのだろうか。目を開けて起き上がる事は、何故か出来なかったけど、あの時、耳だけは聴こえていたんだ。
 
 確かに俺はあの日、女の子を助けて、人工呼吸をしたんだ……。
 でも、あの時、大人達はその事を隠した。
 俺が助けた女の子が妖怪だと、祈祷師であるばあちゃんが言ったから……。

「厄介な事になったよ、まったく。だから、盆に子供達にせがまれても海へ行くなと言ったのに。櫻井さん、あなた一体、私の話の何を聞いていたんだい!?」

 櫻井さんは、近所の酒屋の気のいいおっちゃんだ。子供達にせがまれ、連れてきてしまったのだろう。祖母の言葉に、肩身が狭そうに項垂れた。

「……申し訳ない……。盆とはいえ、まだ初日で昼間だったから、大丈夫かと……」

「勝手な思い込みだね!まったく!さて、起きちまったものはしょうがない。どうしたものか……。健司の胸に、しっかりと刻まれちまったこれを、どうやって浄化するか……」

 祖母の指したのは、俺の胸の中心。心臓のある場所。そこに、刺青のように刻まれた刻印の様なもの……。

「ばぁさま、これは一体、なんの印なのでしょうか……」

 弟子である人間の姿をした妖狐が、祖母に訊ねた。妖狐は、うまく人間に化けていて、誰も彼女が人間以外の生き物だとは、思っていなかった。
 そういえば、祖母が亡くなってから妖狐の姿も消えたと母から聞いた。母がいうには、妖狐は祖母と契約をしていたから、共にあの世に行ったんだと言っていたけど、妖に「あの世」なんて、あるのだろか。
 そんなどうでもいい事を、ぼんやり考えていると、俺より少し離れた位置にいた海姫が祖母の結界内で目を覚ました。

「おや、幼い姫様、お目覚めかい?」

 祖母がそういうと、海姫は美しい顔をみるみる歪ませ、醜い容姿に見目を変えた。

『其奴は私の獲物。返してもらおう』

「残念ながら、その要望には応え兼ねるね。そもそもアンタ、祈祷師の孫に手を出したんだ。その代償がどんなものか、まだ気がついてないのかい。子供だねぇ」

 海姫は、その言葉に険しい表情をし、そっと自身の体に目を向けた。

「アンタはもう、人間にもなれず、妖にすら戻れない。ただただ、馬鹿みたいに長い寿命を延々とひとり生きていく他ない、ただの海の生き物になったんだよ」

『……己れ……!この私に何をした!』

「お前が私の孫にしようとした事と、同じことをしたまでさ。まぁ、孫の方は、私が浄化するからね。アンタの思い通りにはさせないよ」

 祖母が海姫とやり合っていると、子供の頃の俺が目を覚ましたらしく、妖狐が祖母を呼んだ。

第4話 最終話へ続くhttps://note.com/hosinoki_sano/n/nbe57b24606ba

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