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「今を生きる」感覚の大切さを知る

ここ一週間ぐらい、どんより鬱々とした日々が続いていた。
何があったわけでもないが自分にとってはこういった日々のほうがノーマルになりつつある。
睡眠のリズムが崩れることによって、それはやってきて、ますます眠れなくなるという悪循環を作り上げてくれるのだ。

それにより、人に連絡することができなくなった。
したくなかった、というのが正しいのだが。おそらく、いや絶対に、相手の信頼を失う出来事となっただろう。
だというのに、その事実に少し安心している自分もいる。
一緒にいるとき少しつらい気持ちになる相手だったから。
いっそ嫌ってくれたほうが心理的に楽なのである。

昔から、自分を抑えてしまうことが多かった。今回もそれにより耐えられなくなったのだろう。本当は行きたくない誘い。もっとやりたいことがあるのに。でも信用のために行かなきゃな。
本来そういう考えで物事を引き受けるのは相手にも失礼なのかもしれない。
昔からいまいち人付き合いというものを理解できていない節があった。
そのため、今も仲の良い友達なんて少ないし、長い時間をかけて、どんどん人が離れていった。無理もないと思う。

「ありのままの自分でいい」というから、気にせず振る舞った。
しかしどうやら人間関係にはルールがあるらしい。
してはいけないことがあるし、やったほうがいいこともある。
そんなの当たり前すぎて誰も教えてくれることはないのだが、自分にはそれがわからない。わからないことを、どうにかしたかった。

「こんな自分をどうしたらよいか」ということを考えることに日々の多くの時間を費やしていた。ダメなところばかり見つかって、なんとか人と仲良くなりたいのに、伝える術もわからず、うまくいかないことが起きては落ち込む。自分は普通になりたいだけなのに。どうしてこんなにも失敗ばかりなのだろう。誰が悪くて、私が悪くないのか。なんで私ばっかりが悪なのか。
どうにかしたくて直したくてこんな自分が嫌で、どうしたら良くなるのかと考えを巡らせている事自体が適切でないと感じつつある。
そうしていることはつまり「自分のことしか考えていない」という状態だからだ。「自分がどう思われるか」ばかりにとらわれて、「相手」という存在が自分の視界に入っていない。なのに、人とコミュニケーションを取ろうとする。人と話しているのに独り相撲。会話にならないのも当然だ。
意識は常に自分の心に向いている。

こうして文字に書き起こすことで、よりその意識を鮮明に感じられる気がする。
常に「私は劣っているから、誰かがなんとかしてくれる」なんて考えを持っている。日頃からコミュニケーションに感じていた違和感が、この意識からくることに気がついた。
どうして自分のことを他人に委ねているのか。
自分自身で立っていないことに、どうして気づかなかったのか。
もちろん、私はこの事実に気づいたばかりで、”それ”を正確にとらえられているかというとまだ微妙な段階だ。

それでも今このタイミングでこの文章を書きたかったのは、「今」という感覚を持っていないことに気づいたから。

私のようにさまざまな事情で不十分な心を持っている人間は
「まずは五感を養うと良い」という記述を見て、さっそく食事を摂るときに試してみた。
味、食感、におい。ひとつひとつを感じながら食べる。たったそれだけのことだが、普段から味を感じないように食事をしている自分にとっては随分効果的だったようだ。
なんとなく面取りして煮込んだ大根は、長い時間煮なくても柔らかかった。じゅわっと染み出すだし汁のうまみと、大根のほんのりとした苦味が合わさってなんだかおいしい。炊きたての御飯はアツアツで、水分を含んでやわらかい。口の中にとどめておくと、おもちのような味がする。米だからそりゃそうか。とか。何回も食べたことがあるのに、なんだかはじめて食べるような気持ちになった。
お米なんて何十年も食べているのに、おいしいのもわかっているのに、意識を集中させて食べるともっとおいしい。
そんなことにすら気づかず、「ただ腹が満たされれば」と、自分についての考え事をしながら、食べ物をないがしろにしながら、自分の今この瞬間の気持ちを無視しながら、食事をしていたことに気づく。

「今を生きる」ということは、目の前の出来事を味わうことだ。
取り越し苦労も後悔も不必要なものだ。
今、感じていること。それが現実のすべてだったのだ。

自分が感じたことに、他人のジャッジが入る隙間はない。
「お米がおいしい」感覚は、誰のものでもない私のものだ。
その感覚自体に他人が口を出すのは、変というか不可能だ。
これは味覚だけではなく、きっと世の中のすべてに当てはまる。
誰がなんと言おうと、感じているのは自分だと意識する。
自分の「今」の感情や考えを知り、味わう。
人を思いやるためには、自分が「今」に立ち戻るしかない。
「過去」や「未来」に行ってしまったら、目の前の相手を感じることができなくてあたりまえだ。

なんてことだ。食べることに集中するだけで、自分の生き方のちょっとした違うところに気づいてしまった。
食べ物がおいしいということを改めて感じられたのがとてつもなくうれしくて、幸せな気持ちになれたのだ。
フワフワとどこかに飛んでいっていた自分が、今この時間に戻ってきたような、なんだかよくわからないが、うれしい気持ちなのだ。

過去は過ぎてしまった時間。未来は起こるかすらわからない時間。
「今、生きている」という実感をすることが、自己否定も怒りも憎しみもなにもかもを癒やしてくれる気がした。
最初から自分はここにいた。

この感覚をもっと感じることができるように、日々目の前に起きたことを大切にしていけるようになりたいと思った。
まだ鬱々と体の真ん中に重くのしかかっているものが消え去るには時間がかかりそうだけど、少しずつ氷解していくことが可能かも、と。
兆しが見えた出来事だった。
これからも一歩ずつ前に進んでいきたい。

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