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ハガキ職人から放送作家、そして廃業へ。3

【大学生(21歳) 2001年 】

クリスマスが過ぎて大晦日になりました。僕は「こんな不安な気持ちでは年は越せない」と思い、作家のAさんに電話しようと決めました。こちらから電話をかけるのは初めて。相手は業界の人、何時に電話をかけるのが失礼にならないか、そもそも電話をかけて第1声、何て言おう。
「Bさん、まだ怒ってますかね?」
別にそんなことが聞きたいのではありません。

当時、僕は千葉市川市にある京成線の国府台という駅の近くに住んでいました。大通りを渡ればすぐに江戸川で、橋を渡ると向こうは東京都、江戸川区。Aさんに電話をかけたいけれど、何て言ったらいいのか。

晴れ空の下、ずっとそれを考えながら江戸川に掛かる大きな橋をケータイを握りしめてトボトボと歩いて渡り、東京都側へ。橋を渡りきると踵を返して、来た道を戻り千葉県側へ。そしてまた東京へ、千葉へ、東京へと何度も往復して、やっと歩き疲れて河川敷の芝生に座り込みました。そして、腹を決めAさんに電話をかけました。

トゥルルル…トゥルルル…「留守番電話サービスセンターに接続します」

留守電かよ! 

そしてまた、東京と千葉を行ったり来たり…。 何往復したときか、日も沈みはじめた頃、Aさんから折り返しの電話がありました。

「どした?」

「あ、あの。こ、こないだBさんと食事をさせていただいた顔面と申します」

「そんなん分かっとるよ。液晶に名前に出てるもん」

「あの、A様。た、ただいま、お時間よろしいでらっしゃいますか?」 

Bさんにこっ酷く怒られたあの日以来、僕は本屋さんで「ビジネスマナー」の本を読み漁っていました。

「そういう敬語とかいいから。それより、どしたよ?」

「ぼ、僕って… どんな感じでしょうか?」

説明足らずにもほどがある僕の問いをAさんは優しく汲み取り、答えてくれました。

「大丈夫やと思うで。Bさん、お前のこと何やかんや言いながら気に掛けてるし」

「え! そうなんですか!!」

実はAさんもナイナイANNの元ハガキ職人で、Bさんに拾われて放送作家になった人でした。Aさんも同じような経験があったそうで、
「お前が不安になる気持ちは、ようわかるで」と言って僕を励ましてくれました。 この言葉で、僕はなんとか年を越すことができました。


大学の卒業式を終え、3月中旬になっても僕はバイトもせずのらりくらりと過ごしていました。社会経験が無さすぎて危機感すら持てていなかったのです。ただ目の前の問題として、来月からは大学生ではなくなる、親からの仕送りは貰えないな、とはさすがに思いました。しかし実際には何も動けず、ついに3月31日。それは午後のことでした。作家のAさんから電話があったのです。

「今から来られる? Bさんがお前のこと呼んでるんだけど」

僕は原付バイクを飛ばしてお台場にあるラジオ局へと向かいました。下で受付をして会議室がある建物の22階へ。ラジオ局に初めて入った興奮もそこそこに、指定された会議室へと辿り着きました。

ビジネスマナーの本にならって、僕はドアを2回「強めに」ノックして中に入ると、そこにはBさんを中心に10人ほどの人たちが会議をしていました。

「お前さ、ノックの音がデカイよ!」
と、いきなりまた怒られ。Bさんは僕を皆に紹介しました。

「こいつ、ハガキ職人の顔面凶器ね。明日からこの番組のサブ作家やらせるから」

明日から?!

そのままスタジオに移動し、パーソナリティを迎えてランスルーが始まりました(ランスルーとは、本番と同じ環境でおこなわれる事前リハーサルのこと)。皆、本番さながらに真剣で、僕は何をしたらいいのかも判らず、目の前で起こっていることをただ棒立ちで眺めていました。

ランスルーが終わり、落ち着いたところでやっとBさんからの説明がありました。明日(4月1日)から始まる新番組の作家のアシスタント「サブ作家」に僕を使ってくれるとのこと。夜12時から1時間の生放送で月曜日から木曜日まで。さらに月曜日の全体会議にも参加して、ギャラは月10万円。

「お前、どうせ暇だろ?」

Bさんは完全に見透かしていました。当然です、日々たくさんのタレントやスタッフと相対している百戦錬磨のラジオディレクターが、一大学生の行動を読むなど容易いこと。「あいつは、今ものらりくらりやっているだろう」と、どうしようもない僕を呼んでくださったのです。


【放送作家(22歳) 2002年 】

こうして2002年4月1日、僕は放送作家としてデビューをしました。とはいえ「サブ作家」の仕事は主に雑用でした。夜12時からの生放送のために僕は夕方5時にラジオ局に入り、まず報道部に行ってスポーツ新聞を4紙、放送に使えそうな記事を選んでコピーします。会議室に戻ってコピーを演者さん、ディレクター、メインの作家さんの机に並べたら、楽屋とスタジオ用のジュースやお菓子の買い出し。

当時のお台場は不便な所で、コンビニに行くのも一苦労でした。制作部のパソコンでリスナーから届いたメールを印刷して、ゲストの資料も揃えて、メインの作家さんから頼まれごとなどをしているとあっという間に本番の時間になります。

この頃、特に嫌だったのは番組に関係ない人からも買い出しを頼まれることでした。当時、僕はこのラジオ局の中で最も若手でしたし頼みやすかったのか「顔面くん、どこどこであれ買って来てくれない?」とよく頼まれました。

先にも言いましたが、お台場はとても不便で買い出しに行くだけで30分のロス。買い出ししている間に別の人から電話がかかって来て「お前、どこにいるんだ?!」「あの資料、どうなってるんだ?!」とあっちこっちと振り回されてまた怒られる、そんな毎日でした。

ある人にコンビニでナポリタンとタバスコを買ってくるように頼まれたときはタバスコがなかなか見つからず、コンビニを2、3軒回ってやっと思いで手に入れ、渡すと「違うよ、緑(ハラペーニョ)の方だよ!」とキレられました。

赤でも緑でも、どっちでもいいやんけ!(笑)


最初は原稿を書く機会もほとんどなく、メインの作家が書いた台本をコピーしてスタッフに配り、演者さんやゲストにお茶を出す。
「台本を綴じる時のホチキスの位置は左上だ」とか「お茶を出すときに紙コップの縁を持つな」とか、せっかく教えてくれているのに、僕は「いちいち、うるせーな」と思いながらやっていました。「こんなこと、作家の仕事に何の役にも立たない」と思っていたからです。

僕はとにかく生意気でした。 廊下ですれ違うラジオ局のお偉いさんに挨拶をせず、なぜか睨みつけるという、今思えば完全にアブナイ奴です。
「局内をウロチョロしているあいつは誰なんだ?」とラジオ局の重役たちが集まる大きな会議で、僕のことが議題に上がるほどでした。

この話は続きます。
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放送作家 細田哲也 ウェブサイト

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