ハガキ職人から放送作家、そして廃業へ。4

【放送作家1年目(22歳) 2002年 】

 そんな僕の性根を叩き直そうとしてくれたのがディレクターのCさんです。この人は30代前半で、ラジオ局員には珍しくノリが軽く(今でいうチャラい)、女にモテそうで、いい車に乗ってそうな遊び人風の人でした。噂によれば、ある大企業の社長の隠し子で、学生時代は渋谷のチーマーに属し、あのZeebraさんともツーカーの仲だとか。事実はどうあれ、本当にそうであってもおかしくないと思える、魅力的な人でした。
 のちにCさんは制作部から営業部に異動になると「ラジオを作れないならいいや」と言って、あっさりと某大手広告代理店に転職してしまいます。未だにCさんの正体は謎のままです。

 Cさんにはとにかく無茶振りをされ続けました。深夜1時過ぎ、放送終わりのスタジオに閉じ込められ、いきなり即興の擬似ラジオ番組をやらされたこともあります。当然ながら、経験もトーク力もない僕が何をしゃべっても全くウケません。D卓(ディレクターの席)に座ってニヤニヤとこっちを見ながら、インカム(スタジオ内に通ずるマイク)を入れて来るCさん。

「はい。つまんないから、次の話! いこう」
ウケるまで終わらせてくれそうにありません。

 なんか楽しそうなことやってるぞ、と他の番組のスタッフまでもが集まって来てしまい、その視線に晒されて余計に顔がこわばり声が震え、そんな僕が何をやってもウケるはずがありません。苦し紛れに上半身裸になって乳首にスティックのりを塗ってみても全くダメ。もうどうしようもなくなった僕は、頭を搔きむしり、おでこを机にバンバン叩きつけて叫びました。

「この度は、本当に申し訳ありませんでした!!」

 それまでの流れを完全に無視した、突然の謝罪。するとスタジオの外は大爆笑。Cさんは大笑いしながら「顔面くん、お疲れ!」と僕を解放してくれました。

 その時は、晒し者にされたことが嫌で嫌で仕方なく、Cさんが憂さ晴らしに僕をイジメているのだとも思いました。しかし、そんなことをする得がCさんには全くないのです。この経験で僕は、パーソナリティがラジオでしゃべることの大変さ、日々のネタ探しがいかに大切か、人を笑わすことの難しさを教えてもらいました。しかもラジオ局の本物のスタジオと機材を使って、豪華に体感させてもらっていたのです。

 Cさんは大笑いしながら「それだよそれ!」と言いました。つまり、はなから僕に面白いトークなど求めていないのです。経験も技術もない人間が唯一できることは素直になること。追い詰められて出た一言が、準備された言葉よりも遥かに面白いことを教えてくれています。

 そんな意味があるとは当時の僕が気づくはずもなく、Cさんの無茶振りにただただ苦しむ日々。そしてついに、僕は事件を起こしてしまいます。


 毎週、月曜の昼に行われていた番組の全体会議。この会議の最後にもCさんからの無茶振りは飛んで来ました。

「それでは会議のシメに、顔面くんに面白いことをやっていただきましょう」「えっ!?」

 とっさに一発ギャグらしきものをやってみるも会議室の誰一人も笑わず、ダダすべり。この無茶振りは毎週続き、僕はそれが苦痛で仕方ありませんでした。月曜から木曜まで仕事をして、休みの金土日を使って必死でネタを考えて月曜日の全体会議で披露する。何をどうやっても全くウケない。もうスベりたいくない!

 追い詰められた僕は、月曜の全体会議を休んでやろうと思いました。「風邪を引きました」なんていう理由は業界では通用しません。

(よし、バイク事故を偽装しよう!)

 月曜日の昼11時ごろ、僕は原付バイクに乗って家を出ました。原付の足元には全体会議で使う資料やメールが入った大きな紙袋を置いています。江戸川区を南下し、湾岸道路を右に曲がってお台場方面へ。
 やっぱりこのまま会議に行こうか。いや、またCさんの無茶振りでスベるのはイヤだ。葛藤しながら原付を走らせるうち、どんどんとお台場の景色が近づいて来ます。
 この日はごとうび(流通業界で納品が特に多い0や5のつく日のこと)で、3車線の湾岸道路は、配送のトラッックやトレーラーで渋滞をしていました。

(やっぱり嫌だ! 会議に行きたくない)

 もう、どうにでもなれと僕は渋滞で停車しているトラックの後輪に自ら原付バイクを激突させ、派手に転倒しました。

「イタタタタターーーーー!」と、痛くないけど自作自演のオーバーアクション。

と同時に原付の足元に置いていた紙袋が倒れ、中に入っていたメールの束が湾岸の風に乗って道路上に散乱。湾岸道路(お台場方面)は、一時封鎖となりました。
 ちなみにこれは、あの『踊る大捜査線』で織田裕二さんがレインボーブリッジを封鎖できなかった年の1年前の出来事です。

 僕は全くの無傷でしたが、自ら呼んだ救急車に乗って病院に行きました。自分が起こした事の重大さよりも「よし、会議を休めた」という気持ちの方が大きく、僕は救急車の中でずっとニヤケ顔が止まりませんでした。
 病院では「手首が痛みます」と嘘をついて、お医者さんに無理やり包帯を巻いてもらい、その日の夜の生放送には普通に行きました。
 その時、思った以上に皆さんが心配してくれていて、局内で会う人会う人に「大丈夫だった?」と声をかけかられ、ここ最近ずっと放置プレイだったBさんまでもが「労災、申請できるか聞いてみるよ」と言ってくださり、さすがにそれは心が痛みました。

 バイク事故の偽装は当然のこと、人に迷惑をかけることは絶対にやってはいけないことです。深く反省しています。

 この話は続きます。


放送作家 細田哲也 ウェブサイト

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ハガキ職人から放送作家、そして廃業へ。

ラジオ番組『ナインティナインのオールナイトニッポン』のハガキ職人から放送作家になった、僕の16年間の回顧録です。
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