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「文書」の真偽が本質なのか?加計学園問題


加計学園問題がワイドショー化してきたようだ。この問題を巡るメディアのコメントを聞くと,もっと霞が関の現場を理解したコメントでないと誤解が蔓延するなぁ、との思いを強くする。


  文科省が作成した文書に「「総理のご意向だと聞いている」と内閣府から伝えられた」との記述があったのが発端だ。どうやらこの文書は文科省の担当者が内閣府との交渉状況を次官以下、文科省内部で報告するために作成した内部メモのようだ。役所では日常的に行われる仕事だ。確かに「文書」には違いないが、一般の人が思い描く「公文書」とはわけが違う。役所として責任あるチェックをしたものでもない。

 今、この文書の真偽に焦点が当てられ、この点についての当時の次官の発言まで飛び出している。
官房長官が「怪文書のような文書」と言ったので、そういう流れになったのだろうが、本来、文書の真偽は本質的な問題ではない。問題はこれをもって加計学園の獣医学部新設の判断を不当に歪めたかどうかだ。

 仮にこのような発言があったとして、この言葉だけを切り取って議論することは適当ではない。どういう状況での発言かを考えるべきだ。言葉は状況の中で意味を持つ。

 状況はこうだ。国家戦略特区で規制緩和を進めようとする内閣府が規制緩和に抵抗する文科省を説得して実施させようとした。それまでの特区制度では、規制官庁の抵抗に会って、なかなか規制緩和が進まなかった。そこで、新たに仕組みに代えて、内閣府が規制官庁と交渉する仕組みにしたのだ。岩盤規制をドリルで打ち砕こう、と発破をかける官邸の意向を受けて、内閣府の担当者も抵抗勢力の役所と闘う意気込みで交渉する。そういう役所同士の激しい交渉の場では、担当者同士のやりとりの中で、勢い余ってこういう言葉を発することは、霞が関の官僚ならば容易に想像できる。

 私も役所同士で交渉していて、相手の役所の担当者に対して、苛立ちからこの手の言葉を発したこともあったものだ。民間企業においても社内で事業部同士の調整の話し合いで「社長の意向だ」という言葉を思わず発する場面もあるのではないだろうか。
しかしそう言われたからと言って、まともな官僚はひるむものではない。単に役所同士の交渉の場でしばしば飛び交う、昔からよくある「脅し言葉」の一つだ。文科省は内閣府の担当者のこの程度の言葉で、次官まで圧力を感じるような情けない役所なのだろうか。私にはそうは思えない。
 仮にそうであるならば、おかしいと判断した次官は、即座に官邸に対して確認し、筋を通そうと説明するのがトップとして当然の対応ではないだろうか。それができるのが次官であり、それをすべきなのが次官である。それをせずに、今になって「歪められた」と公に発言する当時のトップの姿を文科省の官僚たちはどんな思いで見ているだろうか。

 本質的な問題は、この言葉によって本来あるべき意思決定が歪められたかどうかである。
52年ぶりの獣医学部の新設だという。既得権から長年獣医の数を増やさないようにしてきた強固な岩盤規制だったのだろう。これだけでなく、成田市における医学部の新設も30年ぶりに国家戦略特区の制度で認められた。構図は同じだ

 このような既得権を打破する規制緩和の動きに対しては、規制を死守したい者にとっては「意思決定が歪められた」ということなのかもしれない。ならばその意思決定の内容の妥当性こそ問題の本質である。
本件は民主党政権下でも進めようとした規制緩和案件であった。またメディアも抵抗勢力を排して規制緩和を進めるためには内閣のリーダーシップが必要と説いていた。
そうしたことも含めて、本来国会でこの意思決定の妥当性をきちっと議論すべきなのだろう。これまでそれをしてこなかった怠慢こそ問われるべきではないだろうか。

 さらに厳しく問われるべきは、トップ官僚の在り方だろう。内閣人事局ができて官邸から人事権を振りかざされた官僚が委縮しているとの指摘もされている。そういう面もないわけではないだろうが、あまりそれを過大に考えるのもどうだろうか。霞が関には未だ気概を持った多くの官僚たちがいるのも事実である。彼らはきっとこう思っているだろう。
「俺たちはこんな情けない官僚ではない!」

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