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徳川家康さま☘️をたどる#81☘️大坂夏の陣・本戦1

初筆 2024年 4月 12日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 81
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 1615年・慶長20年5月6日 #大坂夏の陣 での前哨戦うち八尾・若江の戦は、大坂方・ #木村重成 さま討たれ木村隊壊滅。また徳川方の #藤堂高虎 さま・ #井伊直孝 さまの軍勢もダメージを受け、翌日の本戦では先鋒を辞することとなった

  • 道明寺口・八尾・若江の戦で徳川軍は8割方の兵力温存状態、対して豊臣軍はどちらかと言うと敗戦、もはや豊臣軍は大坂城に近い場所への配陣しかできない状態

  • 大坂夏の陣の本戦の豊臣軍・徳川軍の対峙場所はは、現在の地名で言うと、天王寺区・阿倍野区・生野区・東住吉区の境界線あたりで、歴史的表現をすると天王寺口・岡山口が激戦地域となった❗️

前回はこちら❗️
⬇️

3 大坂夏の陣本戦


大坂夏の陣本戦は、#天王寺岡山の戦 と呼ばれていて
1615年・慶長20年5月7日正午ころに始まり
15:00くらいには終了しました。

徳川軍・幕府方の軍勢が以下の

の3つの方向から攻める陣構えを取り
豊臣軍が徳川勢の総大将である
家康さま・秀忠さまをターゲットに
陣を構えたため激戦区は天王寺口・岡山口と
なりました。

紀州街道口が天王寺口・岡山口と比べると
激戦地域とならなかったのは、
家康さま・秀忠さまがいなかった以外に
道明寺口の戦でダメージを受けていた
徳川軍紀州街道方面の実質指揮官・伊達政宗さまが
あまりやる気がなかった🤣💦せいです。

4 天王寺口の戦い


1615年・慶長15年5月7日の正午ごろ
四天王寺南門前から天王寺口方面徳川軍に
対峙していた、豊臣方天王寺口方面指揮官
#毛利勝永 さまの鉄砲隊が先走り、
物見、偵察に来ていた徳川軍先鋒の
#本多忠朝 さま軍勢への銃撃で
天王寺口の戦の火蓋は切って落とされました。

豊臣軍の毛利勢は、
徳川軍先鋒・本多忠朝さま軍勢を突破、
徳川軍天王寺口方面2番隊うち #小笠原秀政 さま
軍勢がかけつけますが破られてしまいます。
さらに徳川軍2番隊うち #丹羽長重 さまの軍勢も
毛利勝永さまに押されます。

この時点で天王寺口の戦は混戦状態で
徳川軍天王寺口方面の先鋒隊にはまだ
指揮官がいましたがいずれも少数部隊で
徳川軍天王寺口方面先鋒隊は混乱状態でした。

徳川軍天王寺口方面2番隊大将の #榊原康勝 さまや
配下の指揮官の軍勢もしばらくは毛利勝永さまの
猛攻に耐えていましたが、徐々に混乱していき、
その混乱が徳川軍天王寺口方面3番隊大将の
#酒井家次 さまやその配下の指揮官の軍勢に
広がっていきました。

そして、天王寺口方面徳川軍の
先鋒・2番隊・3番隊が混乱状態に陥ったため
徳川軍本営である家康さま本陣が
まったく無防備になってしまいました。

本営の前に1番隊から3番隊まであり、また、
兵数では豊臣軍の3倍もある徳川軍が、
家康さまを大将とする方面軍において
家康さま本営を無防備にするなど、
徳川家臣団としては、武田信玄さまとの三方ヶ原の戦
以来でした💦

こうなった原因として考えられるのは
一言で言うと戦のカンを忘れてしまっている、
というところでしょう。
野戦最強軍団だったはずの徳川家臣団は
なぜこんなことになってしまったのか❓

1番隊〜3番隊までのメインの指揮官は
#本多忠朝 さま・ #榊原康勝 さま・ #酒井家次 さま、
と徳川四天王の次世代です。
先代は戦国真っ只中に戦に次ぐ戦で
しかも小さな戦からじょじょに大きな戦の
指揮官となっていき、戦に関しては考えなくても
カラダやアタマが自然に働くくらい、
熟練した指揮官になっていましたが、
次世代は戦場では考えながら動く状態たったと
推測できます。そして関ヶ原の戦よりあと
15年も本格的な野戦をしないうちに
戦のカンをいつしか忘れていたのでしょう。

また、豊臣軍は指揮官である毛利勝永さまが、
戦国を武将として生きてきたことがわかるような
言動を浪人衆に向けて取ってきて、
事前から浪人衆からの兵の心を掴んでおき
現場・戦闘中は寄せ集め兵を組織的に動かすことが
できたのです❗️❗️

対して徳川軍は先鋒内・2番隊内・3番隊内の
小隊の中では伝達が伝わっても
大将からの小隊への指示が伝わりにくく、
小隊間で連携が取れてなかったのです。

言ってしまえばこれも
少し前の回から話している、
関ヶ原の戦から大坂の陣の間に、次世代、
つまり戦に関してすっとこどっこいな世代が、
増えてしまったせいかと考えられるのです。

また家康さまも、徳川四天王の子供たちならば、
先代と同じとは行かなくとも、戦において
押さえるべき箇所は押さえてくれるだろう、と
甘い読みをしてしまったのかも知れません。

5 家康さま本陣の馬印が倒れる❗️


家康さま本営が無防備になるその少し前、
#真田信繁 さまは茶臼山付近で
#松平忠直 さまの軍勢と激しく戦闘していました。
松平忠直さまは昨日5月6日の
八尾・若江の戦での傍観を家康さまに
叱責されていたため、抜け駆け陣取りをし、
もう一つの徳川軍天王寺口方面軍先鋒のような
状態から、対峙する豊臣軍の真田信繁さまに
突撃していたのです。

そんな最中、真田信繁さまは
目の前の徳川軍が一瞬手薄になったとき、
天王寺口方向をふと見ると
家康さま本陣の旗本衆と毛利勝永さまが交戦中で
家康さま本陣が押され気味でした💦

チャンスと見た真田信繁さまの軍勢は、まず
紀州街道の #浅野長晟 さまが真田勢の西を抜けて
大坂城に向けて駆けていったのを見て、
浅野勢は大坂方へ寝返ったと
虚報を流して幕府方の動揺を誘い、
これに乗じて、家康さま本陣方向へ進出❗️
天王寺口西側に2番隊として控えていた
#本多忠政 さまの軍勢を突破し、
家康さま本営に向けて
3回にわたって突撃を
繰り返しました。

真田信繁さまの突撃で家康さま本営は混乱、
家康さま本営の旗奉行は、
三方ヶ原の戦以来、倒れたことのなかった
家康さまの馬印の倒してしまい、
さらに家康さまを見失いました。
また騎馬で逃げる家康さまも
一時は切腹を覚悟したと伝わります💦💦

馬印とは敵・味方の両方に
こここそ本陣である❗️❗️という
示威行為を見せていくための旗印であり、
これが盤石であり倒れないことこそ
圧倒的な軍事力を示威することができます。
敵からは遥か遠くに見えていて
たどり着くことを果てしなく感じさせ
戦意を消失させる効果があり、
味方にはまだまだ後方には最強の本営があり、
アンシンして目の前の戦闘に没頭できるのです。

その馬印が倒れてしまっては
敵の戦闘意欲を鼓舞し、
味方はそれを見ただけで総崩れに
なりかねないのです💦

真田信繁さま・毛利勝永さまは
家康さま本営にアタックを重ねましたが、
しかし豊臣方もここで家康さま・秀忠さまの
首を取るという方法でしか勝ち目がないため、
真田勢・毛利勢ともここぞとばかり
ムリな突撃を繰り返し、豊臣勢の損害も拡大、
数で勝る幕府方に次第に追い詰められていきました。

また、徳川軍岡山口方面軍の
2番隊だった #藤堂高虎 さま・ #井伊直孝 さまの
軍勢が家康さま本営の救援に到着、
紀州街道口の先鋒・ #水野勝成 さまも
救援にやってきて、豊臣勢は徐々に崩れていきました。

あともう少しで、家康さまを討ち取ることが
できたかも知れない真田信繁さまは
茶臼山の北東側の安居神社での休憩中、
松平忠直さまの軍勢に討ち取られました。

また毛利勝永さまの軍勢も周りに味方がいなくなり
軍勢を立て直した徳川軍の四方八方からの攻撃に
耐えきれず、毛利勢も大坂城内に撤退しました。

また豊臣方別働隊の #明石全登 さまは
天王寺口の豊臣軍が敗れたことを知ると
天王寺口・茶臼山の水野勝成勢に突撃した後、
資料により、逃亡したとも、討ち取られたとも
言われています。

6 岡山口の戦

徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き
進撃命令を出しました。

徳川軍岡山口方面軍先鋒の #前田利常 さまの軍勢は
豊臣軍の #大野治房 さまの軍勢に崩され、
2番隊の井伊直孝さま・藤堂高虎さまの軍が動くも
昨日の戦闘でのダメージのせいか
大野勢を止めきれずに、大野勢は
秀忠さま本陣にまで迫り、
旗本先手の #土井利勝 さまの軍勢が崩れ
秀忠さま本陣も一時混乱し、
将軍の御旗が倒れたとも伝わります。


このとき、 #本多正信 さまは大局的に見れば
徳川勢は勝っている、と進言、また
目付役すなわち軍事顧問的に、戦国時代に
本多忠勝さまと並ぶほどの武将と名を馳せた
#立花宗茂 さまが秀忠さまに付いていて、
後退しようかとお考えだった秀忠さまに
今は味方を鼓舞するために退いてはならないと
うまくアドバイスなさいました。

そして秀忠さま本陣はスグに将軍の御旗を立て直すと
秀忠さまの軍勢は落ち着きを取り戻し、反撃を開始、
大野治房さまなどの豊臣岡山方面軍は、
大坂城内に撤退しました。

岡山口方面でも徳川軍が圧倒的な兵力だったのに
豊臣軍に秀忠さま本陣への斬り込みを
許してしまったのは、天王寺口方面軍と同じく、
世代交代+小隊ごとに連携が取れてない
ということに原因があり、さらに
2番隊の歴戦の指揮官藤堂高虎さま、そして、
徳川軍最強軍団の井伊直孝さまの2大軍勢は
前日の戦闘ダメージが残っていたことも
影響があったのでしょう💦

7 次回

大坂夏の陣では総合的に
豊臣方の敗北で幕を閉じましたが、
徳川勢のすっとこどっこいもなかなかのものー💦

しかし豊臣軍が家康さま本陣に斬り込んだとき
大坂方の総大将である秀頼さまは何をしていたのー❓


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