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徳川家康さま☘️をたどる#57☘️秀吉さま晩年のご指示による大老家康さま誕生

初筆 2023年 10月 27日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる #57
⬇️
アップ次第リンクします🙇‍♂️


1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
 #家康さま やその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

# 三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著

# 信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  •  #羽柴秀吉 さまには珍しく、常識の通用しない外国に対して、終戦プランデザインのない戦を仕掛けてしまったのが #唐入り

  •  #文禄の役 で日本軍が快進撃したのは初戦のみ。朝鮮水軍の巻き返し・朝鮮義民兵の決起・明軍到着により、日本軍は不利となり、そのまま戦線膠着。現地では敵味方とも厭戦気分となり、現地主導で、和議を結んだ。

  • その和議は、秀吉さまには日本の勝ち。明皇帝には明の勝ちと伝えられた。そんな中、のちの #豊臣秀頼 さまご生誕。

  • 家康さまは肥前名護屋では諸侯とのお付き合いを深めた。

  • 家康さまは京大坂では、豪商・医者・僧侶・公家など広く付き合い、教養と知識を身につけて行った。またそのコネクションを利用して、家系図も再整理❗️


⬇️前回はこちら❗️

3 羽柴秀次さま失脚事件

1591年・天正19年12月に関白就任していた
#羽柴秀次 さまは表向き羽柴家当主でしたが、
事実上の当主はもちろん #羽柴秀次 さまであり、
政治向きに関しても、秀次さまは天下人秀吉さまが
決定したことを具体的に実務遂行しているだけでした。

そして、そんなときにのちの #豊臣秀頼 さまは
ご誕生なさいました。
関白職は幼少では就任できない決まりがあったため
本心としては秀頼さまにあとを継がせたい秀吉さまは
秀次さまが中継ぎ関白となり、そのあとに
秀頼さまがしかるべき年齢はなったときに
関白職を継げるような策を設け始めます。
以下のような案が1593年・文禄2年9月あたりの
文書に見て取れます。

  • 日本国を5つに分け、うち4つを秀次さまに与え、残り1つを秀吉さま自身の手元に残す、つまり秀頼さまに継承させる

  • 秀頼さまと秀次さまの娘の婚約を決める

そして秀次さま・秀吉さまの関係は
そのまま何事もなく保たれていましたが、
1595年・文禄4年7月、両者は原因不明の
突然の不和・関係悪化となりました。

そして結果として同年7月15日、
秀次さまは高野山にてご自害なさいました😭
それを受けて秀吉さまは、秀次さまの御一門を
男女関係なしに、ほぼほぼ斬首なさいました😭😭
また、秀次さまの居城の聚楽第、そして
かつて秀次さまが城下町を整備・運営・発展させた
近江八幡の八幡山城を、秀次さまの痕跡を
徹底的に消滅させるべく、徹底破壊なさいました。

理由・原因は謎のままです、コレ❗️という資料はなく
秀次さま失脚・ご自害にはさまざまな説はあるものの
どれも推測の域を越えません。

ただただ言えることは、秀次さま失脚後、

  • 秀頼さまが時期、羽柴家当主が確定した

  • 秀吉さまの縁者は、秀頼さま・小早川秀秋さま、の2名になってしまった。

という事実が残りました💦💦

4 保証とルールを決め始める秀吉さま

秀吉さまは全国の諸大名に上洛を促し、
秀頼さまへの忠誠と秀吉さまが定めた法や決まりを
遵守する起請文の提出を求めました。
江戸へ帰国していた家康さまも
1595年・文禄4年7月24日急遽上洛
秀吉さまに対面しています。

そして起請文は、家康さまだけではなく、
#徳川秀忠 さま・ #井伊直政 さまも提出なさいました。

秀吉さまがルールや起請文に必要以上に
こだわったのは、

  • 秀次さま事件の処理を、秀次さま無実を主張するための自害とはせずに、秀吉さまは強引に秀次さまご謀反として処理したため

  • そもそも秀吉さまはこういったところでは、人心を起請文やルールで縛る人ではなかったのに、それをやったのは、ご自身に時間が残されていないため

などと考えられます。秀頼さまが分別つき、
ご自身で考えて行動できるようになるまで
秀吉さまは健康でいられないとの思いを
強く感じていて、秀吉さまは焦り気味なんですね💦

また秀吉さまは、1595年・文禄4年8月3日日付で
御掟御掟追加)という文書を

  • 徳川家康さま

  •  #宇喜多秀家 さま

  •  #上杉景勝 さま

  •  #前田利家 さま

  •  #毛利輝元 さま

  •  #小早川隆景 さま

連名で提出させました。
内容は

  • 諸大名間の婚姻や同盟の禁止

  • 紛争その他揉め事は豊臣政権により解決されること

  • 公家や寺社は本来の務めを果たし政権へ奉公すること

などが文書化されました。
これらの起請文や覚書・掟書は書いた諸将に
ルールや約定を守らせる意味もありますが、
その他、日本全国に対して、豊臣政権は
一枚岩の盤石である❗️ということを示すための
もので、そのための有力大名連名による
御掟書だったのです。


5 徳川秀忠さまのご婚姻

秀吉さまは、浅井3姉妹うち1番下の
#お江 (ごう)さまをいったん養女とし、
徳川秀忠さまに嫁がせました。
ここで家康さまはさらに羽柴家の
有力な親戚・ご一門衆というお立場になりました。

1596年・文禄5年(10月27日には慶長に改元)5月
秀吉さま同伴の秀頼さま初上洛に、家康さまも供奉し、
官位官職を正二位・内大臣に進めました。
また参内には、牛車を使用、
このとき家康さまは天下人の太閤秀吉さまに
次ぐお立場であり、内外に政権を支える
有力大名として威容を誇ることになりました。

6 唐入りの続き

このような中にも、明国との交渉は少しずつ
進んでいました、というよりも、いかに誤魔化しつつ
秀吉さま・明国皇帝に納得してもらうように
唐入りを収めるのか、が豊臣政権の唐入り講和担当者に
求められている重要課題でした💦

そして。。。
細かい経緯は端折りますが、
秀吉さまは講和条件に激怒❗️💦💦
1597年・慶長2年2月、
再度の #唐入り #慶長の役 が勃発💦

秀吉さまが唐入りの成果として要求し
唐入りの成果にしようと考えていた

  • 朝鮮国王子を差し出すこと

  • 朝鮮半島南部の日本への割譲

がまったく得られなかったことに対する
秀吉さまの激怒から再度唐入り、でした。

そして、案の定、1597年・慶長2年後半には
日本軍は苦戦を強いられることになります💦💦

7 危うい豊臣政権と五大老・五奉行

世間では豊臣政権の危うさが囁かれ始めます。
その理由は

  • 1598年・慶長3年4月以後、病で伏せがちであった秀吉さまは6月に入り、症状を重くしていった

  • そのころには朝鮮半島の日本軍は苦戦続きで、唐入り失敗は誰の目にも明らかになっていた

  • 秀吉さま後継者の秀頼さまはいまだ幼少

  • 羽柴家御一門は小早川秀秋さまのみとなっていた

  • 秀吉さまは豊臣政権の安定化に対して、何も対策をせず、ひたすら秀頼さまの官位官職を進めた

などです。
そして遂に死期を悟った秀吉さまは
秀頼さまへの忠誠を誓った起請文を
諸大名にあらためて提出させました。
その起請文の宛先は、前田利家さま・徳川家康さま
でした。

この時点で家康さまは、秀吉さまの絶大なる
信頼を得ていることになります。
秀吉さまに対してこれ以上ないくらい
忠誠を払っていた家康さま、これは
秀吉さまが生きている間だけとか、そのうような、
表裏のある態度ではなくて、心からそういう気持ちに
なるように、家康さまはお勤めだったと思います☺️🤚

家康さまはなぜそのような前向きな態度を
お取りだったのか、これはやはり、表向きに考えるなら
戦乱の世の中には戻さないようにするため、
そして、ご自身のことを考えるなら
万一家康さまが天下を取る時には、
世論が自分を後押ししてくれて、自然に天下が
取れるようにするため、ともお考えだったのかと
思います😉🤚

そして1598年・慶長3年8月、
秀吉さまは亡くなる直前に、
秀頼さまが成人するまでの間の政治制度を
策定しました。それが #五大老#五奉行 の設置です。

五大老とは、豊臣政権を軍事・外交と政治秩序面で
支える立場にあった有力諸大名で

  • 徳川家康さま

  • 前田利家さま

  • 宇喜多秀家さま

  • 上杉景勝さま

  • 毛利輝元さま

です。
また五奉行は政権運営の実務を担っていた
秀吉さま側近の5人で

  •  #前田玄以 さま

  •  #浅野長政 さま

  •  #増田長盛 さま

  •  #石田三成 さま

  •  #長束正家 さま

でした。
この五大老五奉行は政権緊急時に共同で運営に当たる
有力者・実務者の政治集団でした。
秀吉さまの死後、家康さまはこの制度を
徳川家のために存分に利用することになりますっ❗️😉🤚

8 次回

五大老設置で家康さまは豊臣政権の執政者の1人
と考えてもよいお立場になりました。
他の大老の役割が権威付だったのとは違い、
家康さまは伏見に常駐
(前田利家さまは横並びで大阪常駐)
五奉行からの相談事をこなす日々を送ります。

そしていわゆる政争が始まりますっ❗️


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