見出し画像

徳川家康さま☘️をたどる#47☘️真田氏離反・石川数正さま出奔

初筆 2023年 8月 11日 / 加筆修正 未
この記事は有料ですが、今とこは
実質最後まで無料で読めます🤗
有料部分の文章は
「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ☺️✋
またこの記事の前半と同じ内容を音声で聞けます。

無料で聞ける:徳川家康さま☘️をたどる#47
⬇️
https://stand.fm/episodes/64d7f55d341cc6a52dfd88f2


1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 家康さまが事前に小牧・長久手の戦いを、どう捉えていたのか一次史料からは読み取れないが、畿内を囲むような大名に連絡して、秀吉さま包囲網を事前に形成したことから、この戦で天下を取るつもりだった可能性もある。

  • もし小牧長久手の戦で秀吉さまを討ち取ったとしてもこの時点で家康さまの天下取りは時期尚早、統治は立ち行かなかったであろう。この時点では家康さまは天下を治められる器であると、世間に広く認知されてないため。

  • 小牧長久手の戦で、家康さまはまず戦における大将としての才覚と同盟者からの信頼力を世間に認知され始めた。

  • 実はこのころ東海地方は大雨に見舞われていて、小牧長久手の戦は史実以上継続できなかった。

  • 小牧長久手の戦の和議後、秀吉さま包囲網は瓦解した。

前回はこちら
⬇️

3 小牧長久手後の秀吉さま・家康さま

小牧長久手の戦直後の1584年・天正12年11月
朝廷は秀吉さまの人気と統治の実力をお認めになり
秀吉さまに天下人として従三位権大納言の
官位と役職をお与えになりました。
続けて、
1585年・天正13年3月正二位内大臣、
1585年・天正13年7月従一位関白
となった秀吉さまは、織田信長さまの官位と・役職を
はるかに上回り、大名ばかりか、朝廷までも
羽柴家が天下を統治=中央政府である、と
お認めになるに至り、羽柴秀吉さまは
中央=機内の羽柴領国化をなしました。
豊臣政権はこのとき成立したと考えてよいかと思います。

一方、家康さまはタイヘン💦💦
1583年・天正11年5〜7月の東海地方大洪水、そして
1584年・天正12年の小牧長久手の戦で
荒廃した田畑、庶民の生活の立て直しをしている
ところへ、不安定だった信濃に問題が発生❗️💦

1582年・天正10年、本能寺の変を受けて
発生した天正壬午の乱ののち、相模北条氏と結んだ
同盟条件に、上野国沼田(群馬県沼田市)を
相模北条氏に割譲するという内容がありましたが、
沼田の地は信濃小県郡・植田城主・真田昌幸さまの
領地でした。

家康さまが領地保証をしてくれるつもりで
従属した真田昌幸さまからすると、
沼田を取り上げられて、代替え地を与えられない、
というのは受け入れにくく、
1585年・天正13年6月に徳川氏から離反。
越後の上杉景勝さまに保護を求め従属しました。
そして真田昌幸さまと家康さまは対立しました。

4 第一次上田合戦

真田昌幸さまの離反に対して
家康さまは怒ったという記録があります🤣💦
従属していたのに、領地部分割譲をガマンせず、
また昌幸さまの居城上田城は家康さまが
🆚上杉氏対策で築城して真田昌幸さまに預けたお城
そのお城ごと上杉氏に寝返ったのだから、
まー家康さま、怒ってもよいかも🤣🤚

1585年・天正13年8月に第一次上田合戦が勃発
家康さまは
鳥居元忠さま・平岩親吉さま・大久保忠世さまに
上田城を攻撃させました。そして。。
家康さま敗北。。💦💦
真田勢が繰り返す挑発と退却から引きつけての攻撃に
徳川軍は翻弄され撃退されました💦💦

相模北条氏は同時期に
真田氏所領の上野国沼田を攻めましたが
こちらも真田勢に阻まれ、攻略でしませんでした💦

そして真田昌幸さまは信濃国小県郡・上田の
所領を確固たるものとし、さらに
1585年・天正13年10月には、さらに🆚徳川氏を
考慮して、秀吉さまにも政治的・軍事的保護を求め
従属しました。

5 真田氏離反の影響

家康さまが、真田氏という
そんなに大きくはない国衆を軍事的に
制圧できなかったことが信濃の他の国衆の
徳川氏離反を招きました。

第一次上田合戦で敗退した徳川氏をみて
自身の領国の保全は、家康さまには
任せられない、と判断する国衆が
徳川氏を離反する動きは連鎖していきました。

離反組の大勢力のうちには、
天正神戸の乱のさなか、家康さまに
政治的・軍事的な保護を求め、
かつては信濃国の守護家であった
小笠原貞慶さまも家康さまを離反、
秀吉さまに従属してしまいました。
また木曾義昌さまも少し前に
徳川家を離反💦💦

6 石川数正さまのお立場と出奔

そのように信濃国で国衆が家康さまから離反するさなか
家康さまの宿老の石川数正さまが、
徳川家から出奔し、秀吉さまの保護下に
入ってしまうという徳川家にとって一大事が
起こります。1585年・天正13年11月のことでした。

小牧長久手の戦のあと、家康さまは講和条件として
家康さま次男・義伊さま(のちの結城秀康さま)に
石川数正さまの子・勝千世をつけて
秀吉さまのもとに送っています。
が、佐々成政さまと家康さまが組んで、
秀吉さまと敵対しようとしているという
疑惑が巷に流れ、秀吉さまは戦略として
上記2人とは別に、徳川家宿老から人質を出すように
織田信雄さま経由で、求めてきました。

秀吉さまとしては、人質を出せば
家康さまは秀吉さまに臣従したとみなし、
人質を出さないときは家康さまは
秀吉さまへの臣従の意思なしと見て、
徳川家に戦を仕掛けるつもりでした。

このとき、秀吉さまと家康さまを取り継いでいた
徳川家宿老が石川数正しまでした。そして数正さまは
大坂での秀吉さまの権勢を目の当たりにしていて
「今は羽柴氏に臣従するのが徳川家にとっての得策」
と肌で感じていて、家康さまから秀吉さまに
宿老人質を出すべきと徳川家内部で主張しました。

しかしこのとき、徳川家内部は🆚秀吉さまにおいて
主戦派が多数を占めていて、
さらに北条氏との同盟関係もあって、
徳川家は人質拒絶に決定、
秀吉さま融和路線の数正さまは徳川家内部で
徐々に孤立していきます。
政争に負けたという表現でもよいくらいだった
と考えてもよいかと思います。

さらに悪いことに、徳川家から離反した
信濃・深志の国衆、小笠原貞慶さまが、
かつて徳川家を頼り深志領の奪還した際に
後見・指導していたのが石川数正さまだったのです。
小笠原貞慶さまが徳川家を離反したことでも
石川数正さまの徳川家でのお立場を失うことに
なりました💦💦

そして石川数正さまとその家族は、
人質として取っていた小笠原貞慶さまの子を従えて
秀吉様のもとへと出ていきました💦💦

この事態を受けて家康さまは

  • 石川数正さまが城代をお務めだった三河岡崎城での自体の収拾

  • 軍事機密が秀吉さまに漏れるため、軍を武田型に再編成

しなければなりませんでした💦💦
家康さま、いつも、何かしら悩み事待ってまんなあ💦💦

7 次回

  • 宿老人質を出さない

  • 取次の石川数正さま出奔

をもって、家康さまの羽柴政権からの離脱と
捉えた秀吉さまは「家康成敗」として出陣の意向を示し
1585年・天正13年末に兵15万人分の兵糧を
美濃大垣城に備蓄させ、自ら大垣城に入りました。

美濃大垣城から、徳川家領国までは
目と鼻の先、家康さま、またしても大ピーンチ❗️❗️💦🤣


ここから先は

24字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?