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徳川家康さま☘️をたどる#78☘️大坂夏の陣の前哨戦は大坂方指揮官の経験不足が目立つ

初筆 2024年 3月 22日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 78
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 大坂冬の陣後、明けて1615年・1月、家康さまは約1ヶ月かけて、2月半ばに駿府にご到着、その道中は政務をこなしつつも、ゆるりと旅をお楽しみになった。

  • 1615年・慶長15年3月、駿府下向の武家伝奏、 #広橋兼勝 さま・ #三条西実条 さまより #祭事之書物 が進上された。これはのちの #禁中並公家諸法度 の参考資料。

  • 大坂方の浪人衆の上方における乱暴・狼藉・放火や、大坂城の修築・堀の復旧などの報告を受け、家康さまは、 #豊臣秀頼 さまに、浪人衆の解雇または秀頼さまの国替をご提案。大坂方はこれを拒否。

  • 家康さまは大坂を再び攻める決意をなさり、開戦準備を始めた❗️💦

前回はこちら❗️
⬇️

3 大坂の陣を引き起こしたのは豊臣方だった

1615年・慶長20年4月、大坂夏の陣直前には
豊臣家はもはや政治勢力ではありませんでした。
それは関ヶ原の戦以後、家康さまや徳川勢が
豊臣家やその他、諸大名の関係性や
公家衆・門跡衆、そして世間の風評を鑑みて、
作ってきた政治勢力状況でした。
そして大坂冬の陣の前には
そのような状況が出来上がっていて、
その状況を素直に受け入れられない
大坂方が、 #大坂冬の陣#大坂夏の陣 という
武力衝突を引き起こしたのです。

仕掛けたのは徳川方・家康さまでした。
しかし、戦となってしまう結論を出したのは
豊臣方だったのです。
大坂方がそういった判断をしたのは
以下のようなマトリックスが考えられます。

  • 秀頼さま自身が、大坂方が徳川方に万が一にも戦で勝つ可能性があると思っていた。そしてそれ以外の可能性はお考えでないか、または、豊臣家滅亡でもよいかと思っていた。

  •  #淀の方 さまが上記・秀頼さまのようなお考えを持っていた、つまり豊臣家が戦で勝つ以外の豊臣家存続はお考えでなかった。

  • 秀頼さま側近、つまり #大野治長 さまは豊臣家存続をお考えだったと推測できるが、戦をすることを選んだのだから勝っての豊臣家存続をお考えだった。治長さまは豊臣家国替あるいは浪人解雇をして、戦を避けて豊臣家存続を選ばなかったことになりますが、その判断を決したのが、秀頼さまなのか?淀の方さまなのか?大野治長さまなのかはわかりません。

要するに、大坂方は大局を見誤ったか、
考えが甘かったか、先が読めなかったのか、
そのせいで、大坂冬の陣も、大坂夏の陣も避けられず、
さらに豊臣家存続も果たせられなかったのです。

4 上方に集結する徳川方

家康さまが名古屋城に入った
1615年・慶長20年4月10日に、 #徳川秀忠 さまは
江戸を出立、上方に向かいました。
家康さま九男の #徳川義直 さまの婚儀後、
家康さまは上方に向かい、4月18日に
京・二条城にご到着。

ちなみに秀忠さまは
自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう
家康さまに伝えてくれ、と #藤堂高虎 さまに書状を
出しています。
秀忠さま、関ヶ原の戦での本戦への遅刻が
よほどトラウマになっていたのですね🤣💦

大坂夏の陣では、徳川家臣団はもちろん
代表的なお家の方が布陣なさいました。
そして有力外様大名は以下の方々が
大坂に集結なさいました。

  •  #藤堂高虎 さま・この頃は家康さまおよび徳川家からの信頼も厚くほぼ徳川家譜代大名と同じ待遇でした。

  •  #伊達政宗 さま

  •  #前田利常 さま

  •  #細川忠興 さま

  •  #浅野長晟 さま

  •  #黒田長政 さま・大坂冬の陣では江戸に留め置かれましたが夏の陣では出陣許可が降りました

  •  #加藤嘉明 さま・黒田長政さまに同じ

  •  #片桐且元 さま

なお、 #上杉景勝 さまは上洛していましたが、
京の警護を任されていて大坂には陣を張りませんでした。
また #福島正則 さまは冬の陣に引き続き
夏の陣でも江戸に留め置かれました。
豊臣恩顧大名うち情に流されやすい人間性を
家康さまから危険視されていたのです💦


5 家康さま大坂へ

1615年・慶長20年4月21日、
徳川秀忠さまは京・二条城に無事ご到着💦
翌日、家康さま・秀忠さまは、
#本多正信 さま・ #本多正純 さま
#土井利勝 さま・ #藤堂高虎 さまと
軍議を行いました。

進軍は外様大名を含む徳川軍を以下の二手に分け
京から大坂に進軍しました。

  • 川内路:現在の京阪電車に沿うように京から南下、寝屋川あたりで京阪電車から外れて大東市から東大阪市を抜けて東側より大坂に向かう。家康さま・秀忠さま本軍や #井伊直孝 さま・ #藤堂高虎 さまなど。

  • 大和路:京から現在の奈良市・郡山市を経て現在の藤井寺市に抜けて、大坂の南東から大坂に向かう。 #松平忠輝 さま・ #伊達政宗 さまなど。

また #浅野長晟 さまは京からではなく自領の紀伊より
南から単独で大坂に向かうことになりました。

1615年・慶長20年5月5日、
家康さまは京を発ちました。
その際、家康さま本隊への兵糧指令を
3日分でよい、と通達したそうです。
家康さまはこの時点で大坂夏の陣を
野戦即決の戦にする、とお考えで、
実際、その通りになったのですが、
これはまた後の話。

6 大坂方の内情そして作戦


1615年・慶長20年4月、
大坂夏の陣の直前の大坂城の様子を
少し話します。

大坂城内は主戦派と外交による戦闘回避派に
分かれていて、 #大野治長 さまは
どちらかというと戦闘回避派でした。
同じく、徳川家との取次的立場にいらした
#織田有楽斎 さまも戦闘回避派でした。

しかし、主戦派である #大野治房 さま、
治長さまの弟ですね、は、
兄・治長さまが外交による戦闘回避を画策中に
城郭の修理や埋め立てられていた堀を
掘り返すなどの戦闘準備を、始めていて、
大坂城内では徳川家・ #江戸幕府 への
対応に統一性がありませんでした。
大きなカリスマ性をもって、
大坂方の存在の方向性を確定させる
人材に欠けていたのです。

そんな折、戦闘回避派の大野治長さまが
主戦派によって襲撃される事件が起こり、
また織田有楽斎さまも、家康さまの許可を取り、
大坂城を退去してしまいました。
もはや戦は避けられないと悟った
大野治長さまはやむ無く開戦準備を始めます。

またこのような大坂城内の様子を見て、
この戦、勝ち目なし、感じた一部の浪人衆は
大坂城を去る者も多くいました。
そして大坂方兵力は大坂冬の陣の9万人近くから
7万人前後まで減ってしまいました。

大野治長さまを中心として、
大坂城浪人衆うち有力諸将の

  •  #真田信繁 さま

  •  #毛利勝永 さま

  •  #後藤基次 さま

  •  #長宗我部盛親 さま

  •  #明石全澄 さま

また豊臣家の家臣

  •  #木村重成 さま

  •  #大野治房 さま

の皆さまで軍議を開き、
大坂方は籠城戦では勝つ見込みが無いと判断、
総大将つまり家康さまを討つ機会があるかも知れない、野戦にて徳川軍との決戦をすることが決定されました。

次回大坂にて戦あるときには
大坂方が籠城してもスグに落とせる状態まで、
大坂冬の陣に持っていっておいた
家康さまの思い通りに
大坂夏の陣は事が進んでいました。

7 大坂夏の陣・前哨戦は戦国時代世代交代後の武将の考えナシが引き起こしたムダな動き


大坂城の南側で激戦となる大坂夏の陣の直前
1615年・慶長20年4月下旬、
徳川勢が軍議を行った直後、
夏の陣の大局にはさしたる影響のない
前哨戦が3つ勃発しました。

  • 大和郡山の戦

  • 堺焼き討ち

  • 樫井の戦

でした。

まず、大和郡山の戦です。

1615年・慶長20年4月ころ
大和郡山を治めていたのは筒井一族の
#筒井定慶 さま・ #筒井慶之 さまのご兄弟で、
江戸幕府から一万石の知行を受けていた
小さな外様大名でした。

筒井定慶さまは大坂方よりの合力依頼をを拒否、
4月26日、大野治房さまを中心とする大坂軍約2千は
大和郡山を攻めるべく向かったところ、
筒井定慶さまは豊臣軍を大軍と見誤り、
大和郡山城を放棄、近隣の別の城に退避、
大和郡山城は簡単に陥ちてしまいました。
筒井勢も総勢1千の兵力はあり、全員で籠城すれば
さしたる戦闘もなく被害も少なかったはずなのです。

そもそも、攻め方の大坂方は、
大局に関係のない、大坂から離れた大和郡山攻めで
なぜ兵力・体力を浪費するのか?

守り方の大和郡山城・筒井定慶さまは2千の兵を
なぜ大軍勢と見誤ったか?

これは攻め方・守り方とも、世代交代によって
大将が戦国時代真っ只中の百戦錬磨では
なくなっていたからです。

結果、大野治房さまは大和郡山城を制圧しましたが、
徳川軍が大和路に迫っていると聞き、
大和郡山城を放棄、大坂城に引き上げます。

また、筒井定慶さまは大和郡山の戦での
城を放棄するという采配ミスを悔いて
後日ご自害なさったとのこと。


堺焼き討ちはまったくなくてもよい戦闘でした。

大野治長さまの別の弟の #大野治胤 さまは、
1615年・慶長20年4月28日
2千の兵を率いて堺を焼き討ちにしました。
その理由・動機は徳川勢に軍需物資支援を行っていた
堺への報復措置だったとのこと。

大坂方、そんなことをやってる場合ではないのに💦
これも考えの至らぬ世代交代した武将のなせるワザでした。


樫井の戦を含む浅野攻めは成功すれば大坂夏の陣、
豊臣方が少し有利になったのですが、
豊臣方の戦闘プランが豊臣方諸将に行き渡らず、
豊臣方敗退となりました。

豊臣方は南から大坂を目指す
徳川方・浅野長晟さまの軍勢への対応として、

  • 浅野長晟さまの領国紀伊およびその大坂隣の和泉において、一揆を扇動する

  • 領国から大坂に向かう浅野勢を迎え撃ち、一揆勢と挟み討ちにする

という作戦行動で、兵力3千で挑みましたが、
大坂方主将の大野治房さまと
先鋒 #塙直之 さま・岡部則綱さまや一揆扇動担当との
戦闘開始タイミングがうまく同期できずに、
兵力5千の浅野勢に敗退してしまいました。

兵力や戦略において、決して
引けをとらない大坂方でしたが、
主将大野治房さまの指揮能力不足、
手柄を上げることにはやる豊臣浪人衆・先鋒の
塙直之さま・岡部則綱さまのフライング、
また浅野勢の樫井の地形を有利に使う戦術により、
塙直之さまは討ち取られ、岡部則綱さまは敗走。
一揆扇動は間に合わず、
大野治房さまが慌てて樫井に行くも、
大坂方先鋒は壊滅後でした。

このように大坂夏の陣、前哨戦はいずれも
世代交代後の経験に欠ける武将が引き起こした
ムダな戦、または、指揮能力に欠ける敗退、
という結果となったのでした💦💦

8 次回


世代交代後の武将が前哨戦を起こした直後
徳川勢が丸裸の大坂城に迫ってくる❗️
大坂夏の陣は家康さまの兵糧3日分で🆗の
プラン通りに終わるのかーー❓❗️


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