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徳川家康さま☘️をたどる#56☘️文禄の役そして肥前名護屋・京大坂での家康さまのお振舞い

初筆 2023年 10月 13日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる #56
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

# 三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著

# 信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 豊臣政権の大名統治と江戸時代の大名統治は基本同じスタイル。 #徳川家康 さまは豊臣政権の中で政治家として日本統治のケーススタディをした。

  • 羽柴家では、秀吉さま弟秀長さま、ご子息鶴松さまお亡くなりに😭羽柴秀次さまは関白となり、秀吉さまは太閤となった。

  • 日本の天下一統後、秀吉さま次のターゲットは明国❗️オフィシャルな理由は日本の国際的な地位の確定と南蛮から東アジアを守るため❗️しかしながら秀吉さまのウラ動機は諸説あり明確ではない。

  • 家康さまも秀吉さまの出陣命令に従い肥前名護屋へ。

  • 秀吉さま朝鮮国に先導をお命じになる。しかし朝鮮国は明国にチクリ💦文禄の役が始まったー💦💦


⬇️前回はこちら❗️

3 日本の常識が通用しない大陸の文化💦💦

以前なら情報がない状況で戦は仕掛けなかった、
言い換えると勝てる戦しか仕掛けなかった
#羽柴秀吉 さまが、 #唐入り では異国の情報が
少ないまま戦を始めてしまいました💦
そもそも相手側の国にとっては
攻め込まれる理由もありません。

これが日本国内であれば、中央政権が
惣無事令を敢行してるのにそれに準じてない国あれば、
その国もルールを破ってる感を持っていて
中央政権の勧告に従わなければ
軍事成敗されることはわかっています。

こういった共通認識のことをその国の持つ文化と
言いますが、日本国内では文化が統一されていて
戦の理由や大義名分というものを何も言わなくとも
当事者のみならず、第三者も理解します。

ところが本来、文化の異なる大陸では
日本が持つそういった文化とはまったく異なる
文化があり、秀吉さまが唐入りのために
朝鮮国に先導をさせろ、と言ったところで、
朝鮮国にしてみれば、理由がありません。
それは断ります。
そして当時の日本は世界的な軍事大国なので
朝鮮国にしてみたら攻め込まれたらヤバいのですが、
朝鮮国は明国の属国であることを自他共に認識していて
まー何かあったら明国に助けてもらおう、くらいの
国際状況認識でした。

また、戦というものは最終的にお互いが
納得するような和議・戦後処理をし、
遺恨をできる限り残さない、という、
日本国内の戦ではどの大名でもやっていることが、
大陸との戦だとその落とし所を日本のやり方で
やろうとしても、それが通じない、
これまでは終戦プランを事前に考えていた秀吉さまが
今回はノープランで早急な軍事成敗をしてしまった
感は否めません。

4 文禄の役

そんな状況の中、第1次 #唐入り#文禄の役
1592年・天正20年(12/8より文楽元年)4月、
西国大名は次々と海を渡り朝鮮半島に上陸
進撃を開始します。
初戦は快進撃、準備のない敵国の城々は次々と陥落💦
現在のソウルまで進軍します。

しかし、6月ごろには朝鮮水軍による日本水軍の撃破、
朝鮮義兵の決起、明国の大軍派遣により、日本は苦境に
立たされていきます。

このころ秀吉さまのご母堂がお亡くなりになり、
秀吉さまが大坂に戻り、肥前名護屋に不在期間の
7月〜11月をはさみ、半島での戦況は長期化、
日本側諸将はすでに戦意を喪失してました。

1593年・文禄2年3月になると、 #前田利家 さま・
#家康 さまの渡海も計画されましたが、実現には
至りませんでした。もしかして家康さまは
うまくやったのでしょうか❓

その頃から、肥前名護屋の秀吉さまの意向とは
関係なく、朝鮮半島の戦場では、明国・日本間で
講和交渉が始まります。

その原因は、明国・日本双方ともの兵糧不足💦
朝鮮半島の作物では明軍・日本軍とも賄いきれない
状況になっていて、明国・日本とも戦闘ができる状態
ではなく、どちらかが戦闘で圧勝したわけでもなく、
「現場はもうやめたい💦」という気持ちが
明国・日本の現場陣の共通認識ゆえに、明国の外交担当
と日本側は #小西行長 さま・ # 加藤清正 さまとで、
講和交渉が持たれました。

そして、細かい話ははしょりますが、
日本では「日本側の勝利」と秀吉さま報告され、
明国では「明の勝利」と明国皇帝に報告されました。
そして講和交渉の現場担当者は両国とも
その状況を知っていて、協力体制を取っていました。

ですから正式な講和条件を突き詰めていくと
話はまとまらなくなります。
秀吉さまも明国皇帝も勝者としての
講和条件を要求するからです。

明国は明国皇帝に話などせず、先に、
明軍内の外交官や将校を明国代表使節と偽装し、
また日本軍の官僚( #石田三成 さまなど)も
それを知った上で、肥前名護屋で秀吉さまと謁見、
秀吉さまは

  • 明国皇女の天皇皇妃へ

  • 断絶していた日明貿易再開

  • 朝鮮半島南部の割譲

  • 朝鮮国に王子・大臣の人質差し出し

  • 誓詞提出(契約書提出)

など勝者としての要求を出します。
そして何食わぬ顔で持って帰るフリをする
偽装明国使節団、そしてその後、きっと
日本の官僚と偽装明国使節団の間では
明国皇帝に持ち帰る内容のすり合わせを
始めたことでしょう。

5 豊臣秀頼さまご生誕❗️

そんなとき、1592年・天正20年=文禄元年8月3日に
秀吉さまと #茶々 さま( #淀君 #淀の方 )との間に
男子が誕生❗️
のちの #豊臣秀頼 さまは #お拾い と名付けられます。

この報を受け秀吉さまは大坂に帰還、
こののち #慶長の役 が始まっても、
秀吉さまが肥前名護屋に戻ることはありませんでした。また、家康さまは秀吉さまを追って、
秀吉さまに従い京都に滞在、10月には
江戸へ帰還しました。

6 家康さまの振る舞い・肥前名護屋編

文禄の役は家康さまにとって
大いなる社交の場となりました。
今風にわかりやすく例えてみると、
日本全国の主だった大名が肥前名護屋にて
合宿をしている状態
なのです。

京・大坂も諸大名は集まってはいますが、
各大名とも京・大坂では中央政権の政務もあれば、
自国の政務や軍事・経済などの執務もあります。

しかし、肥前名護屋ではそういったことは
各大名とも京・大坂の親族や重臣に任せておき
肥前名護屋では唐入りに関する政務や
諸将との連絡や交通整理、そして
大大名は秀吉さまの相談を受けたりお相手をするくらい。

家康さまは大名や各国国衆とのお付き合いを
積極的に始めました。これを
「日本之つき合」(にほんのつきあい)と表現する
文書が残っています。
肥前名護屋の地ではまるで合宿所のような
お付き合いが求められたのです。

家康さまはそんな機会を大いに利用し、
各大名や国衆の人と成り、考え方、
中央政権内でのお立場について、などを
把握していきます。
この「日本之つき合」で得た知識や
大名・国衆とのつながりは、家康さまがのちに
征夷大将軍として日本を統治するときに
リソースとして大いに役立てたことでしょう😉🤚

そんな中、たとえば、陸奥 #津軽為信 さまからは
#南部信直 さまのとの和解斡旋を求められました。
あるいは #前田利家 さまとは水争いを起こし、
双方に諸大名や国衆が加勢する騒動になり、
#伊達政宗 さまの仲介でことが収まるという
トラブルも発生。しかし、きっと、家康さまは
そういったトラブルを起こすと誰がどのように動くのか
周囲への影響はどうなのか、などを肌で
お学びになったことでしょう😉🤚

また家康さまは肥前名護屋でも
天下を治められる力量をお身につけられていることを
諸大名にアピールできたことかと思います。

7 家康さま・京大坂での振る舞い

1594年・文禄3年正月に秀吉さまは
山城国・伏見城普請を全国の大名にお命じになります。そのころ、いったん江戸へ帰還していた
家康さまも上洛なさいました。
こののち家康さまは本格的に、豊臣政権の一員として
秀吉さまに従い畿内で政務執行をしていきます。

家康さまは畿内滞在の中では諸大名や国衆だけではなく
公家・僧侶・医師・豪商など各界の実力者や有識者との
お付き合いを持つようになります。

公家の #山科言経 (やましなときつね)さまは
1585年・天正13年から勅勘を受けて
朝廷に出仕できない状態で、1591年・天正19年から
家康さまより扶持米を支給されていました。
言経さまは家康さまと日常的な交流があり、
家康さまは情報収集や公家社会における教養の獲得を
進めていきました。

また家康さまは言経さまに、徳川家家系図の新調や
他家家系図との兼ね合いもお求めだったとのこと。

家康さまは肥前名護屋でも京・大坂の長期滞在でも
将来を見据えてお動きだったようです。
たぶん、秀吉さまに万が一があったとき、
誰が天下を治められるのか、ご自身のアタマの中には
候補者はあったことでしょう❗️

8 次回

秀吉さまは関白職を継いでいた #羽柴秀次 さま
突然、両者の不和・関係悪化が発生❗️💦
秀次さまはなんとご自害😭💦

そして、秀吉さまの家督継承者・秀頼さまとの
兼ね合いもあり、豊臣政権の内部ルール詳細の
策定にまで至ります。

家康さまはどう動くのかーー💦💦


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