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徳川家康さま☘️をたどる#85☘️大坂夏の陣・家康さまご本陣崩れの詮議

初筆 2024年 5月 10日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 85
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 大坂夏の陣では手柄を立てた大名に与える土地が
    大幅に不足。そんな中、家康さまは気を遣うべき大名に土地を与えていった

  • 大坂の陣の直接キッカケとなった方広寺は妙法院預かりとなった。また豊国社は社としては廃絶、方広寺に吸収された

  • 大坂城の金銀は江戸幕府によって回収された

  • 江戸幕府は臨時で摂津大坂藩を立ち上げ、藩主に家康さま外孫の #松平忠明 さまを任命。大坂の町の復興をさせた。道頓堀の名付け親は忠明さま。

  • その後、松平忠明さまは #井伊直孝 さまとともに、江戸幕府の大政参与となり3代将軍 #徳川家光 さまを補佐することになる

  • 大坂の陣の終了で争乱がすべて終結。これを受けて元号が慶長から #元和 に改元された。後年、この騒乱終結のことを #元和偃武 と呼ぶようになった。

前回はこちら❗️
⬇️

3 家康さま本陣の槍奉行だった大久保彦左衛門忠教さま


大阪夏の陣の戦後処理について
最後に一点だけ詳細を話します。

それは、
参考文献・一時史料の三河物語の著者
大久保彦左衛門忠教さまと家康さまの
審問やり取り、と、
徳川家臣団・家康さまの様子です。

大坂夏の陣ののち、京・二条城に引き上げた
家康さまは、1615年・慶長20年6月7日、
合戦時の隊列崩れなどを調査する旨を表明しました。
そして6月17日、逃亡の嫌疑を受けた者を
一人ずつ召し出して審問しました。
大久保彦左衛門忠教さまと家康さまの問答も
このときでした。

今回、特に彦左さま・家康さまの問答に
焦点をあてるのは、彦左さまは
大坂夏の陣にも参加していて、お役目は
家康さま本陣槍奉行の1人だったのです。
槍奉行というのは槍隊の小隊を取りまとめる
リーダーというお役目です。
彦左さまは、家康さまを護衛する槍隊小隊を
とりまとめていました。

大坂夏の陣では、大坂方、 #真田信繁 さまらの
猛攻によりいっとき家康さまご本陣が崩れました。
その本陣に三河物語の作者
大久保彦左衛門忠教さまがいたのだから、
これは詳しくみておくべきでしょう❗️

4 大久保彦左衛門忠教さまプロフ

大久保彦左衛門忠教(ただたか)さまは
1560年・永禄3年生まれで、家康さまの役20歳年下。
歳の離れた兄に #大久保忠世 さま・ #大久保忠佐 さま
がいます。

1576年・天正4年、兄・忠世さまに従い
遠江侵攻にて初陣。
忠世さま・忠佐さまの旗下で各地を転戦
また、兄・忠世さまの信州監視を
代理で務めたこともありました。

彦左さまキャラの「頑固者」は若い頃で、
次兄の大久保忠佐さまは駿河国沼津城主で
弟の彦左さまを養子とし跡を継がせようとしましたが、
彦左さまは「自分の勲功はない」と申し出を固辞。

その後、旗本として坂崎陣屋を三河国額田に構え、
最終的には3代将軍 #徳川家光 さまの御代に
2千石のお旗奉行となりました。

騒乱の世が終わったのちは、
自分の出世を顧みず常に多くの浪人たちを養い、
その就職活動に奔走し、様々な人々から
義侠の士と慕われたそうです🥰

死の間際に家光さまと幕閣より
5千石の加増を打診されたが、
徳川家へ代々忠誠を尽くしてきた大久保家に対する、
江戸幕府の冷遇を忘れることはなく「不要」と固辞。
1639年・寛永16年、80歳でご逝去。

5 お槍奉行・彦左さまへの審問

そんな大久保彦左衛門忠教さま、
大坂夏の陣の馬印・旗印が崩れた件について
家康さまは直々の審問をなさいました。
1615年・慶長20年6月17日のこと。

家康さまは不機嫌でした。
そして彦左さまに「旗奉行はおまえか」
とお声がけ。彦左さまは「槍奉行でした」と。

しかし、家康さまは「おまえは旗に違いない」
彦左さまは「いいえ、槍でございました」
さらに
「おまえは旗だ」
「槍でございます」
と問答が続き、
「では旗には誰がついていたのか⁉️」と
気色ばむ家康さまはさらにお怒り💦💦

彦左さまは
「保坂金右衛門と庄田が旗付きでした」
と答えると、家康さまは
「庄田?庄田?。。。庄田?」
と三度おっしゃましたが、誰のことか分からず、
大坂夏の陣にて家康さま本陣にて、
家康さまに付き従っていた #小栗政信 さまが
「庄田三太夫にございます」と補足しました。

これを聞いた家康さまは、庄田三太夫という人物が
誰なのかわからずに、詮議部屋を
出ていってしまいました💦
そして戻ってきた家康さまは
別件に当たり散らしました🤣💦

大坂夏の陣で家康さまご本陣の
馬印・旗が倒れたことに対して
家康さま・彦左さま間の審問で、
このような問答があった、と、彦左さまご自身が
三河物語にお書きになっています。
当事者が記しているのだから、
事実かどうかが問題なのではなく、
伝えたい内容が伝えられているのでしょう。

戦さ場において、総大将がいる場所に馬印があり、
馬印の周囲に旗が立っていて、その旗の直下に
槍隊がいます。なので総大将直轄軍のことを
旗本と呼ぶのです。

そして馬印が倒れたり、
旗が乱れた動きをしたりすることは、それすなわち、
大将の監督が不行き届き=自軍も律することのできない
大将だ、と、武将としての器量を疑われる、
さらにカリスマ性や求心力の崩壊となるのです。

大坂夏の陣では、大坂方・真田信繁さまの猛攻で
家康さま本陣の馬印が倒れ、旗は乱れました。
その旗奉行を探すことが、
家康さまは1615年・慶長20年6月17日からの
個別審問の目的の1つでした。

そして家康さまは、大久保彦左衛門忠教さまに
おまえは旗奉行であっただろう❓とお問いに
なったのですが、彦左さまは違うものは違う、と
激怒している家康さまに返したのです💦

そして家康さまは何にイラついていたのかというと、
審問前は、単純に家康さまの馬印・旗が倒れて、
家康さま本陣が崩れたのにお怒りだったのですが、
彦左さまとの問答の中で、
大坂夏の陣本戦の家康さま本陣において
家康さまご自身、誰が旗奉行か知らなかったことに
気づき、それにお怒りになり、
つまり自分自身にお怒りになり、
周囲に当たったのです💦

家康さまも人間です。年齢70代となり、
短気になり、周囲を把握したり、
手抜かりの可能性を事前にチェックする能力が
欠けてきてたと推測できます。

また、家康さまの不手際があったとしても、
関ヶ原以前の三河家臣団は
家康さまのヌケを事前にカバーしていました。
大坂夏の陣で家康さま本陣の旗奉行を
アサインしたのは #本多正純 さまとのこと。
本多正純さまは旧来の三河家臣団より実戦経験が浅く、
悪気なく家康さまの知らない家臣を旗奉行に
つけてしまったのでしょう。

6 立っていなかった旗を立っていたと主張する大久保彦左衛門忠教さま

翌日、彦左さまは、家康さまの覚えめでたい
#松平正綱 さまと以下のような問答となりました。

彦左さまは「旗は立ってました」と主張。
家臣たちがざわつきます。

正綱さまはが彦左さまに言います。
「旗は立っていなかったから大御所さまは
 お怒りなのだぞ」と。
また正綱さまは周囲にも聞きます。
「みなも旗は立っていなかったのを
 ご存知であろう?」と。

大いに権勢を振る歌正綱さまの言葉に
家臣たちは「旗は立ってなかった」と
正綱さまに同調するばかり💦
家臣たちの賛同を得た正綱さまは、
彦左さまに、旗は立っていなかったのだ!と。

そのとき彦左さまが言うには
「。。その方らが闇夜に旗を見なかったと言うなら、
 それがしは月夜に旗を見たのだ。
 その方らが月夜に旗を見なかったと言うなら、
 それがしは昼間に旗を見たのだ。
 よもやその方らは、現場を見もせで
 『旗は立っていなかった』と
 言っておるのではあるまいな?」

要約すると、
あなた方は何を見ていたのだ❓
モノを見る目がないのか❓
それとも現場に来てないのに
旗崩れについてあれこれ言うておるのか❓

このやり取りが家康さまの耳に入り、
彦左さまは再び、家康さまに審問を受けることに
なるのです💦


7 旗は立っていたと曲げない彦左さまの真意


家康さまは大久保彦左衛門忠教さまを詮議します。
「お前は槍であったな」
「は。左様にございまする」
「本陣が崩れたときお前はどうして、
 わしにつき従わなかった!」

気魄満々で鬼のように問いただす家康さま、
そして彦左さまは毅然と
「畏れながら申し上げます。
 槍は旗に付き従うもの、
 旗の立っていた大和口の陣場におりました」
「旗は立っていない筈だ!」
「いえ、旗は立っておりました」
「皆も見なかったと言っておる。旗は立っていない!」
「なんとおっしゃろうが立っておりました」
家康さま、さすがにアタマに血が昇ります💦
彦左さまは家康さまがどれほど
怒鳴り散らそうとも動じません💦💦

「私は(家康さまは)見なかった、ぜったいに
 立っていない」
「なんとおっしゃろうが立っておりました」
「弓矢八幡・稀有の天道に誓って、
 わたしは逃げ出したことがないのに、
 おまえは逃げたと言う」
そうです、旗をご自身で確認していないということは、
旗が立っている場所に大将がいなかった、
すなわち、逃げ出したことになり、
家康さまにとってはこの上ない屈辱だったのです。

家康さまに屈辱を与えてまで
彦左さまは何を考えて、旗は立っていたと
主張するのか⁉️

彦左さまはこののちにお咎めなしとなるのですが、
本陣崩れのときに家康さまにずっと付き従っていた
心許す仲間の小栗政信さまに
後日こんな話をなさいました。

お旗にキズをつけてはいけない、
たとえお旗が逃げていたとしても
「逃げませんでした」と申し上げるべきだ。
旗奉行を選んでいるのは家康さまだ、
旗が倒れた、ということにするは、
その家康さまの采配を辱めることに他ならない、
たとえ切腹を仰せつかろうとも、
徳川家譜代は、家康さまを辱めてはいけない、
それが譜代の奉公というものだ。

家康さまが戦況不利となり
逃げるのは現場処理にすぎない、
これは時の運であり恥ずかしいことではない。
主君を置いて逃げ出すような
旗奉行を任じた采配振りが恥なのであり、
それがたとえ事実であったとしても、
家臣は家康さまの采配は正しい❗️と
言い切るべきなのだ❗️

家康さまは怒り心頭の中、
「大久保(一族)は強情だ❗️
 七郎右衛門( #大久保忠世 さま)も
 治右衛門( #大久保忠佐 さま)も強情だったが、
 おまえは兄弟一の強情だ❗️❗️」
とグチになったところで、本多正純さまが止めに入り、
彦左さまに「座を立て」と声をかけて
詮議部屋より連れ出しました。

後日、彦左さまのお屋敷に
小栗政信さまがお訪ねになり、
「覚悟はわかっている、
 切腹するなら介錯は私がして差し上げよう」
と、おっしゃいました。
小栗政信さまとともに登城したところ、
家臣の面々は、彦左さまはあれだけ大御所さまを
怒らせたのに登城してくるとは、と、
ポカンとしているところに、
家康さまがお出ましになり、彦左さまを眺めて、
お通りになっていったのを小栗政信さまはご覧になり、
アンシンなさったとのこと。

また家臣団は、登城しにくいところを
よくもまあ、登城したものだ、と
彦左さまは評価をお上げになりました。

そして、彦左さまにあれだけ罵声を浴びせ詮議し、
言い合いとなるも、結果としてお咎めなしとした、
家康さまももちろん、やはり大御所さまよ、
と評価をお上げになったのでした☺️


8 本心と次回


さらに後日、彦左さまはこぼされました。
「大御所様ほどの御方であっても
 歳をとれば御目が曇るか、
 よく知らない新参者がわしら譜代より
 マシに見えるとは。。」
彦左さまは淋しかったのでしょう😭

そしてついに武家諸法度が発行されるっ❗️❗️

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