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徳川家康さま☘️をたどる#83☘️大坂夏の陣の戦後処理1

初筆 2024年 4月 26日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 83
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 大坂夏の陣本戦で #豊臣秀頼 さま出馬前に戦闘が始まり秀頼さまは結局出馬しなかった

  • 大野治長さまや真田大助さまのミス、大坂城に火の手が上がったことなどが、豊臣勢を動揺させ敗退につながった。

  • 秀頼さまが出馬しても家康さまを討ち取れなかったであろう。なぜなら秀頼さまに自らの判断で「家康さまを仕留めよ」の軍杯を振る器量がないから

  • 秀頼さまを自害させよと命じたのは将軍 #徳川秀忠 さま❗️そして秀頼さま・ #淀の方 さまはご自害

  • 家康さま自らは秀頼さまの命を取れと命じていないが、そう心に決めたのは、大坂夏の陣にて、豊臣軍に追い詰められたときでは❓政治勢力候補と浪人衆が結託しそうなら早々に中心人物を亡き者にすべきことを思い出した家康さまだった💦

前回はこちら❗️
⬇️

3 家康さま二条城に戻る


大阪夏の陣終結の翌日1615年・慶長20年5月8日、
家康さまは大坂を離れ京に向かい、
翌々日には二条城に入りました。
そして諸大名を次々と引見するかと思えば、
公家諸法度草案の意見を公家衆からヒアリング、
少し遅れて二条城に到着した #徳川秀忠 さまとともに
仏教における #因明 (いんみょう)に関する
論議をヒアリングしたり、もちろん、
大坂の陣の戦後処理や論功行賞を行ったり
忙しいったらありゃしない🤣💦

しかし、家康さまは長い間、気にかかっていた、
豊臣家の処理を、穏やかな形ではないにせよ、
遂行することができて、
ほっとしてらしたことでしょう。

家康さまは、秀忠さまに
8月までの在京を求められました。
その期間に真言宗・天台宗・浄土宗・法相宗などの
論議・法問を聴聞しました。
関ヶ原の戦以後、
家康さまは、天下を治めるには文化の充実させ、
戦国の殺伐とした空気を浄化することが肝要と
お考えになり、忙しい最中も
ずっと文化活動を続けてきているのです☺️

4 大坂夏の陣・豊臣家の処置と異説・伝承

大坂夏の陣の終結し
豊臣家親族はどう処理されたのか❓

秀頼さまの子、国松さまは捕らえられ処刑されました。
家康さまは、秀頼さまに関しては
生かしておいては危険という判断を鈍らせてまで、
できる限りギリギリまで命を助ける
手立てをお考えでした。
しかし、秀頼さまご子息の国松さまに関しては
生かしておくわけにはいかないと即決でした💦

秀頼さまの娘さまは #千姫 さまの養女として
僧籍入りを条件に助命され、
1616年・元和2年、東慶寺で出荷し、
#天秀尼 と号しました。
天秀尼様は子をなさなかったので、
ここに豊臣秀吉さま直系の子孫は潰えました。

なお、大坂夏の陣で秀頼さまがご自害した山里廓は
焼け落ちて秀頼さまの亡き骸は確認できず、
絶命の瞬間の目撃者も、いないことから、俗説ですが、
豊臣秀頼さまには大坂の陣以後も生きていたという
生存伝承が伝えられています。少し話します。

薩摩国・鹿児島県には
#真田信繁 さまは大坂の陣では亡くならず、
秀頼さまを伴って薩摩に逃げた、
という、以下のような言い伝えがあります。

薩摩国・谷山に元和初め頃に浪士が住み着き
国主に家をもらい住んでいた。
その浪士は酒好きでいつも酔って、
あちこち寝転がることから「谷山の酔喰(えいぐら)」
と呼ばれていた。
国主から手出し禁止を命じられ、
住民は秀頼公では?と噂していたという。

そして、京大坂では夏の陣のスグあとに
「花の様なる秀頼様を、
 鬼のやうなる真田が連れて、
 退きものいたよ加護島(鹿児島)へ」
と歌われたとのこと。

昭和40年代には、鹿児島県の郷土史家の
後藤武夫さまが、秀頼さまは大坂城落城後、
国松さまと共に九州に逃れ、
日出藩主・ #木下延俊 さまの庇護を受け、
仏門に入り宗連と号し45歳まで生き、
国松さまは延俊さまの養子(表向きは実子)となり
長じて立石領初代領主・ #木下延由 さまとなったと
する説を唱えられたそうです。
これは近代の日出藩主18代目の #木下俊煕 (としひろ)さまも唱えています。
ちなみに延由さまの血統は明治時代まで存続し、
家統は1923年まで存続したととのこと。

また鹿児島市下福元町に秀頼さまの墓と
伝わる塔があり、
その付近の木之下川に秀頼さま家臣の墓と伝わる
塔があるとのこと。

秀頼さまが国松さまを伴って
落ち延びたのは伝承に過ぎませんが、
当時のウワサは家康さまの耳に入ったはず。
家康さまはどうお感じになったのでしょうか❓
仮に事実だとして、知ってて見逃したような
気がしないでもないですね😉

5 徹底した大坂方残党の探索と処置

江戸幕府は、大坂の陣で豊臣方に与した
浪人衆諸将や侍大将・残党の追跡を
徹底して行いました、その徹底ぶりは
畿内の寺社などに対して落人やその預物の探索、
ま有力武将に止まらず下々の武将まで捕縛、
でした❗️

そして秀忠さまが名実ともに将軍になってからも
ずっと執り行われました。
そのように長期にわたって豊臣方残党を追跡したのは、
家康さま・秀忠さま、そして江戸幕府の意思として、
豊臣方に与した者を許さないという
強い意思を内外に知らしめることで、
戦国の世を大坂の陣終結で完全に終わらせる
強い覚悟で挑んだからと考えられます。

徳川方に処断された大坂方諸将を列挙します。

  •  #長宗我部盛親 さま勢力の追尾は10年以上にわたって行われました。後年、徳川幕府転覆を企てた由井正雪さま一味の丸橋忠弥さまは長宗我部盛澄といい盛親さまご子息説あり。

  •  #細川興秋 さまは父・ #細川忠興 さまから自刃を命じられました。

  •  #増田長盛 さまは #増田盛次さま の罪を背負う形で自刃を命じられた。

  • 茶人であり大名の #古田織部 さまは大坂方に内通したという疑いから自刃を命じられた。また嫡男の古田重広さまも連座して死罪に処せられた。

  • 明石全登さまのご子息・明石小三郎は後年、薩摩で捕縛されました。

  • 毛利輝元さまの密命で豊臣軍に加わった内藤元盛さま捕縛されたが、毛利家は無関係だと主張、元盛さま自刃。

  • 大坂方に内通で #福島正則 さま弟の #福島高晴 さま改易

  • 蝦夷松前藩では、大坂方へ内通の #松前由広 さま父の #松前慶広 さまの手で斬首された

  •  #織田有楽斎 さまの嫡男 #織田頼長 さまは廃嫡、有楽斎さまは頼長の弟2人に領地分与。

6 許されたり匿われたりした大坂方諸将

一方で事情により、許されたり匿われたりした
大坂方縁者もいました。

#伊達政宗 さまは大坂夏の陣ではあまりやる気がなく、
夏の陣では人材発掘をしました🤣

  •  #長宗我部盛親 さまの甥の #紫田朝意 さまを仙台藩奉行に取り立てました。

  •  #真田信繁 さまの子の #真田守信 さまが仙台藩重臣の #片倉重長 さまに匿われ、後に仙台藩に仕官しました。


また、室町幕府の幕臣であった真木島昭光さまは
かつての同僚の細川忠興さまの嘆願で助命。
織田昌澄さまが旧主の #藤堂高虎 さまの嘆願で助命。

7 徳川方、親藩・譜代大名や旗本衆の処置

家康さま・秀忠さまは、
たとえ将軍家親戚筋の親藩大名であろうが、
代々忠義を尽くしてきた譜代の家系であろうが、
徳川軍内の粗相をした諸将や、
軍功を上げながらもその後の態度が不遜などなどを、
遠慮なく処分する厳しい処置を施しました。

これは大坂の陣の終結=間髪入れず、
江戸幕府における幕藩体制を揺るぎないものに
していこうという、家康さまというよりは
2代将軍秀忠さまとその側近たちの意思が
大坂の陣、戦後処理に反映されています。

まず親藩大名2家です。

  • 家康さま六男の #松平忠輝 さまは夏の陣の行軍時に秀忠さまの旗本が軍列を追い越した際にその旗本を切り捨てるという軍法違反により翌1616年・元和2年に改易されました

  •  #松平忠直 さまは、大坂城一番乗りを褒めてもらったものの、その褒賞が大坂城や新領地でなく、有名な茶壺と従三位参議左近衛権中将への昇進のみであったことが不満で、後に乱行・改易となりました。

徳川家譜代大名・旗本への処分は、
天王寺・岡山の戦いで、本陣の家康さま・秀忠さまを
危険な状態とした者の失態を中心に行われました。
このような処置は関ヶ原の戦以前の
徳川家臣団には見られなかった失態でした。
家康さま・秀忠さまはこのような叱責や処分を
しなくてはならないこと時代、気が重かっただろうと
想像できます💦

早々に叱責されたり処分されたのは以下です。

  • 天王寺口3番手大将の #酒井忠次 さま叱責を受けた

  • 秀忠さま使番 #青山清長 さまが大坂方と内通した件で切腹

  • 秀忠さま使番 #溝口常吉 さまと子の半左衛門が大坂方の者を宿所に泊めたとして改易。

次に家康さまは、家康さま本陣が崩れたときに
多数いた逃亡者を内々に調査し、
嫌疑を受けた者は1人ずつ召し出しヒアリングしました。
三河物語著者で家康さま本陣詰めだった
大久保彦左衛門忠教さまの軍旗に関する有名な問答も
このときに行われたとのこと。

1615年・慶長20年8月家康さまは駿府に戻ってからも
家康さまご本陣から逃亡した者たちを
投票で告発させ、結果を確認した家康さまは
その報告を封印した、とあります。

また9月から10月にかけて
秀忠さまは各組頭衆などの指揮官クラスを
残らず招集して、天王寺・岡山合戦の
状況・戦功・逃亡などを調査しました。

そして年末1615年・慶長20年12月27日、
幕府は天王寺・岡山合戦の賞罰を発表❗️💦
処分者は、
大名の討死を出した部隊の目付、
岡山口で戦闘を行った書院番、
軍役で寄せ集めた槍足軽を統率した槍奉行、
合戦時の混乱で家康さまを一時見失った
家康さま本陣の旗奉行、
などでした。

8 次回

大坂夏の陣の戦後処理はこれだけではない❗️
数は少ないが領地加増もあり、
また大坂の陣のことの発端、方向時鐘銘という
大坂反乱のシンボル処理もある。

大坂城の財宝の処理、そして
大坂の町の戦後復興もあれば、
元号の見直しまで❗️❗️
家康さままだ働けー🤣🤣🤚

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