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徳川家康さま☘️をたどる#76☘️大坂冬の陣その3・和議締結とその実行

初筆 2024年 3月 8日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 76
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 1614年・慶長19年、大坂方・豊臣家は浪人召し抱え・武器購入・ #大坂城 修築などをしあからさまに #徳川幕府 との戦の準備を始めていた。

  • 徳川方・豊臣方の人材やその体制を冷静に判断すれば、徳川方の勝ちは事前にわかっていた。

  •  #大坂冬の陣 で大坂方は、撃って出る・籠城の2案が出て籠城となった。

  • 大坂城近隣に築いた大坂方砦は徳川方に突破された。また #真田信繁 さまが築いた真田丸での徳川方敗北は信繁さまが勇猛果敢に戦ったというよりは、徳川方の先陣が信繁さまの作戦になってしまったせいであった。

  • 効率よく意思決定権のある淀の方を落とすことで、家康さま冬の陣で勝ちを得た。その戦略は #羽柴秀吉 さまに学んだ方法だった。

⬇️前回はこちら❗️

3 大坂冬の陣、講和交渉と和議締結

1614年・慶長19年12月15日、
大坂冬の陣、戦闘中、
#織田有楽斎 さま・ #大野治長 さまより
大坂方の和議締結条件が家康さまに届けられて
いましたが、

  • 淀の方さまが江戸に向かうこと

  • 召し抱え浪人への給地の保証

という内容うち、
後者の「召し抱え浪人に食い扶持を」は
家康さまの、
豊臣家を担ぎ上げ政権を奪取させる勢力を駆逐する
という、対大坂戦略に反するものであり、
家康さまは受け入れませんでした。

そしてそのまま、徳川方は大砲による
大坂城への砲撃の手を休めることなく、
大坂城本丸への大砲砲弾で
#淀の方 さまの侍女8名がお亡くなりになる
凄惨な現場を目の当たりにした淀の方さまは
徳川方条件を飲んでも和議締結することを決意
なさいました。

そして12月18日、徳川方の大坂城への砲撃が続く中、
徳川方の #京極忠高 さまの陣において
講和交渉がはじまりました。

  • 徳川方からは、家康さま側近の #本多正純 さま・家康さま側室であり側近の #阿茶の局 さま

  • 豊臣方からは、淀の方の妹で京極忠高さまの義理の母の #常高院 さま

が各陣営の全権代表でした。

そして翌19日に講和条件が合意、
20日に誓書が交換され和議締結が成りました。

ここでやっと大坂城への大砲に砲撃が停止されました。
ということは、和議中も大坂城への砲撃音は
ずっと鳴っていたことになり、
ここでも家康さまは有利に和議を進めるための
心理戦を展開していたのです💦


4 大坂冬の陣・和議の内容と家康さまはこの時点でどのようにお考えだったのか

和議交渉について豊臣方からの申し入れ、
徳川方の約束内容を見ていきましょう。

講和内容は豊臣家側から出された条件として

  • 残すのは本丸のみ。二の丸・三の丸は破却する

  • 総構うち南堀・西堀・東堀の埋め立て

  • 淀の方を江戸住まいの人質としない代わりに大野治長さま・織田有楽斎さまのお身内より人質を出す

でした。

それに対し、徳川方は

  •  #豊臣秀頼 さまの身の安全

  • 秀頼さま・淀の方さまの江戸下向不要

  • 大坂本領の安堵。

  • 召し抱え浪人はそのまま据え置き(不問とする)

これらがこのまま締結されました。

え❓❗️
家康さま的にこれでよいのでしょうか❓
という内容です💦

そもそも家康さまの対大坂軍事行動の目的は、
秀頼さまを担ぎ上げて反乱を起こし、
出世する、あるいは、大名や武士に復帰したい
浪人勢力を駆逐したい、それはなぜかというと、
徳川政権を盤石なものとし、
日本に戦のない世の中を作るため、
というものでした。

そして、大坂冬の陣を、それらの目的を達成するための
家康さまは戦国時代の最終戦と考えていたはずです。
そのために

  • 秀頼さまを大坂から引き離す

  • 豊臣家を大坂方から他の地に移封する

を具体的な目的とし、家康さまは当初
それに向かって動いていたはずなのです。
なのに、秀頼さま、所領は大坂のままで
大坂城から動かない、そういった講和内容なのです💦

想像に過ぎませんが、
この時点で家康さまはこのようにお考え
だったのではないでしょうか❓

  • 冬場に大坂に出張っている諸将は大坂城の包囲が長引くと寒さで疲弊する。また兵糧や暖房のコストもバカにならない。

  • そのためには早く講和する必要がある。

  • 今回の交渉では、秀頼さまと大坂を引き離す、あるいは、移封までは持っていくには、戦闘が長引くと予想される。それは講和より後回しでよい。

  • ならば、もう1回理由をつけて大坂を攻める想定で、大坂城を攻めやすいようにしておける内容を和議内容に含める

  • 万一、家康さまご自身がお亡くなりになったときには、 #徳川秀忠 さま率いる徳川勢力が大坂有事の際には、大坂を攻めやすいようにもしておく

  • 秀頼さまの今後の処分については、もしかして成敗しなければいけなくなるかも

こういったお考えだったと想像できます。

家康さまは大坂城総構の埋め立てをするだけで
有事には、大坂城をコスパよく攻め落とす青写真が
家康さまのアタマの中には
出来上がっていたのでしょう🥰🤚

5 大坂城破却の戦後処理

和議の締結内容うち、城の破却・堀の埋め立ては

  • 二の丸が大坂方持ち分

  • 三の丸・外堀が徳川方持ち分

と詳細に決められていました。
これらの土木工事はかなりの突貫作業で
翌年1615年・慶長20年1月23日には終了し、
担当者大名や徳川家譜代家臣は帰国の途についた
という記録があります。

古来こういった和議では
城割すなわち城や堀の破却は
けっこう形式的なこと、例えば
堀の一部分を埋める・土塁を少し崩すなど、
が多いのですが、
大坂冬の陣での城割は徹底的に行われたそうです。

徳川方の大坂城城割奉行は

  •  #松平忠明 さま・ #奥平信昌 さまの後継で家康さまの外孫

  •  #本多忠政 さま・ #本多忠勝 さまご嫡男

  •  #本多康紀 さま・徳川家譜代大名で三河岡崎藩藩主

  •  #本多正純 さま

  •  #成瀬正成 さま・のちの尾張徳川家の付家老

  •  #安藤直次 さま・このとき江戸幕府老中、のちの紀州徳川家の付家老

でした。
家康さまはこれだけの人材に大坂城破却奉行を
お命じになったことからも、家康さまは
大坂城の堀の埋め立てと二の丸・三の丸の破却を
重要視していたことが見えてきます。
実際、家康さまは大坂を引き上げた後も
堀の埋め立ての進捗をしばしば気にして
ご確認なさっていたとのこと。

また徳川勢は総構・三の丸の堀を埋め立てたのちに
和議内容によると豊臣家担当作業だった
二の丸の堀まで埋め立て始めたことからも
堀の埋め立てが今後の対豊臣家戦略に
いかに重要な案件かを、
家康さまはご認識なさっていたのです。

埋め立ては奉行の配下の者だけではなくて、
地元住民も動員しました。
さらに近隣の屋敷を埋め立て材料に使ったそうです。
また、このときに大坂城の門や櫓の1分も破壊され
埋め立てに使用されました。

なお、後世の歴史書やドラマなどによると、
徳川方は、総構の堀の「総」の字を
豊臣家解釈の「1番外側の」という意味ではなくて
「すべての」という意味に捉えて、
徳川方は豊臣方をうまくだまし、
大坂城の堀を埋め立ててしまい、大坂城を丸裸にした、
などの表現がしばしば見受けられますが、
当時の一時史料でこの言い表しは
見当たらないとのことです。

この工事に関与した外様大名
#伊達政宗 さま・ #細川忠利 さまなどの
往復書簡にても、埋め立て工事に関して、
大坂方・徳川方の揉め事が起こっている形跡もなく、
総構=堀の全てを埋める、という認識は
大坂方・徳川方で合意の内容だったという見識が
現在の大坂冬の陣・戦後処理の一般的な見地の
ようです。

6 大坂を引き上げた家康さま

話は大坂城の城割からさかのぼり、
家康さまはご自身の本陣にて
和議締結を受けての諸大名参陣を
ご自身の本陣で引見し、また戦功に感状を表し、
1614年・慶長19年12月25日に家康さまは、
大坂の陣を引き払い京都・二条城に入りました。

家康さまは二条城に到着するや否や、
大坂冬の陣とは関係なしに、公家衆・門跡の
諸対応に時間を費やしました。

公家衆に対しては、武家伝奏に対して、
朝廷の儀式について天皇に奏上するように
奨めておいた内容をご確認なさいました。

  • 大臣より准皇后・親王は上席であること

  • 儀式において使用される「三方」「四方」について三方は天子より臣下まで根本として使用されるもの。四方はその後にできたものであてにはしない

  • 官位は家々の慣例に基づき任官されているが、家柄だけが判断基準ではなくて、有学の者に与える、という条件を入れるべき

  • 無知の僧は昇進させてはならない

これらが家康さまが朝廷に突きつけた
朝庭儀礼修正点内容の骨子でした。
こういった朝廷の儀礼に口を挟むのも、
家康さまは日本を軍事国家ではなくて、
文治国家に変えていこうとする1つの具体的な
動きであり、世間に示していく内容でもありました。

門跡にも所領安堵を引き続き行うとともに
門主の下知に従うよう、引き続き申し渡しています。

また家康さまは京都において、例えば
「旧事本紀」「古事記」などの古典歴史書の
謄本を、 #金地院崇伝 さま・ #林道春 さまより
受け取りました。
このときの家康さまの古典歴史書謄本の受け取りは
今現在の日本の歴史認識にまでつながる
大切な資料として残りました☺️

12月28日に家康さまはご参内、
大坂冬の陣・和議成立を #後水尾天皇 に奏上、
銀100枚・綿300把を進上なさいました。

そして、1615年・慶長20年の元旦に、
家康さまは秀頼さまのご使者からの
年賀の祝いをお受けになり、
公家衆との年賀の儀礼を一通り済まし、
駿府にお戻りになりました。

7 次回

豊臣家をもう少し、
ご自身の統制下におきたい家康さま❗️
また、江戸幕府が文治政治を成すためにも
朝廷の儀礼を整えたい家康さまっ❗️💦

この辺り、どのように処理を進めていくのかっ❓
そもそも家康さま、ご高齢、ご存命のうちに
それらは仕上がるのかっ❓❓💦


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