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徳川家康さま☘️をたどる#67☘️御三家の基本形確立・1609年ころの家康さま

初筆 2024年 1月 5日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 67
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 家康さま #徳川秀忠 さま は給人・代官🆚村の関係を地域ごとに徴税管理確認した。

  • 1607年・慶長12年、家康さまは、天下普請で築城の駿府城を居城と定め、駿府=家康さま・江戸=秀忠さま、の二元政治が始まった。

  • 駿府城の天下普請は徳川家が武家の棟梁であることを改めて内外に示す目的があった。

  • 家康さまが駿府に移り住んだ裏の目的に、反徳川勢力の動きを「あぶりだし」があった。

  • 政庁は伏見から駿府に移ったこと、つまり徳川政権がさらに確実になったことを、伏見から駿府に金銀財宝を移すことで、内外に明示した。


⬇️前回はこちら❗️

3 尾張徳川家は清洲から名古屋へ

1609年・慶長14年から1610年・慶長15年にかけて
家康さまは尾張名古屋城の築城にかかります。
家康さまはご自身で築城予定地をご検分なさいました。

尾張名古屋城は九男・ #徳川義直 さまを
入府させること前提で築かれました。
尾張の地の中心地を清洲から名古屋に
移す都市計画も込みでの築城でした。
今日の名古屋の発展は、まさにこのときに
始まったのです☺️🤚

徳川義直さまはこのころまだ8歳、
尾張徳川家は興されてはいるものの
義直さまがまだ執政をできるわけもなく、
まずは三河時代よりの重臣 #平岩親吉 さまが
家老として尾張徳川家を預かり城代をこなし、
親吉様は尾張犬山城も預かり、犬山をも統治、
犬山藩主もご自身の国として統治なさいました。

1611年・慶長16年、後継ぎのいなかった
親吉様がお亡くなりになると、
家康さまは、義直さまに、 #成瀬正成 さまを
お付けになり、正成さまは尾張徳川家の
創生期の藩政をよく指揮なさり、
尾張藩基礎の確立に功績をお残しになりました。

ちなみに、成瀬正成さま、尾張犬山城は
平岩親吉さまから受け継いだ形となり、
今現在、犬山城は成瀬家の私物だそうです🤣🤚

1610年・慶長15年6月に名古屋城の普請は始まり、
9月には完了しました。
もちろん天下普請で、 動員した大名衆は、
#前田利光 さま・ #黒田長政 さま・ #細川忠興 さま
を中心とした北国・九州・四国・中国の大名でした。

4 一時期復興していた武田家とは❓

家康さまの書物ではあまり取り沙汰されませんが
家康さま五男に #武田信吉 さま・1583年・天正11年〜
1603年・慶長8年がいらっしゃいました。

なぜ、武田姓なのか❓
武田家のご一門衆であった #穴山梅雪 さまの
穴山家を継いだ、それはつまり滅亡していた
武田家を継いだ、という解釈で武田信吉とお名乗り
だったのです。
そして武田信吉さまには、旧穴山家および旧武田家
家臣が付けられ、信吉さまは1602年・慶長7年に
常陸国水戸25万石に封ぜられました。

1603年・慶長8年に信吉さまが早世なさったあと、
領主なき新武田家は取りつぶしではなく、
家康さま十男の #徳川頼宣 さま(当時は頼将さま)を
常陸国水戸藩の領主とし、名跡も
武田ではなく、徳川、としましたが、
家臣団はそのまま旧穴山家・旧武田家の家臣を
引き継いだのです。

と言うよりは、家康さまは旧穴山家・旧武田家の
家臣団を活かして使っていくために、
頼宣さまを水戸家領主に据えた、
ということかと思います☺️🤚

その後、1609年・慶長14年12月に
家康さまは十男・頼宣さまを常陸水戸国25万石から
駿河遠江50万石に移封、
頼宣さまの分家扱いで常陸下妻国10万石だった
#徳川頼房 さまを常陸水戸国35万石としました。
このときにも、旧穴山家・旧武田家の家臣団は
常陸国水戸の家臣のままで、この家臣団形成は
幕末まで続きます。

5 御三家の基本形が出来上がる

歴史に詳しい方ならもうお気づきかと思いますが
これをもって #徳川御三家 の基本形が形作られました。

しかし、何も、家康さまは最初から
九男・十男・十一男の義直さま・頼宣さま・頼房さまに
御三家の立場を任せようとしたのではなく、
早世だった子供達がその上に何名かいて、
たまたま上の3人が揃って天寿を全うできたため、
義直さま・頼宣さま・頼房さまが徳川御三家と
なったわけです。

早世なさった、 #結城秀康 さまや #松平忠吉 さまが
長命であったなら徳川家の分家体制はまた違った
形になっていたことでしょう。

御三家は最初から御三家と呼ばれていたわけではなくて
尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家設立後、
数十年を経て御三家と呼ばれてるようになりました。
後年に形になった御三家をここでまとめてみます。

  • 尾張徳川家。初代藩主:徳川義直さま(家康さま九男)1616年・元和2年入府。尾張名古屋藩62万石。藩庁:名古屋城。極位極官:従二位権大納言、徳川姓名乗りを許される。上方から江戸に向かう東海道・中山道の要衝の地の守りとして配置。徳川本家の将軍家に後嗣ないときは将軍継嗣候補を出す。

  • 紀伊徳川家。初代藩主:徳川頼宣さま(家康さま十男)1619年・元和5年入府。紀伊和歌山藩56万石。藩庁:和歌山城。極位極官:従二位権大納言、徳川姓名乗りを許される。上方・江戸間を往復する菱垣廻船の要衝海路の守りとして配置。徳川本家の将軍家に後嗣ないときは将軍継嗣候補を出す。なお頼宣さま、当初は1603年・慶長8年、家康さま五男武田信吉さまご早世に代わって、常陸国水戸25万石に封ぜられ、1609年・慶長14年、駿河50万石に転封、紀伊の浅野氏転封にともない、紀伊へ転封という経緯。

  • 水戸徳川家。初代藩主:徳川頼房さま(家康さま十一男)1619年・元和5年入府。常陸国水戸藩35万石。藩庁:水戸城。極位極官:正三位権中納言。徳川姓名乗りを許されたのは1636年・寛永13年で、それまで姓は定まってませんでした。陸奥国への水戸街道・岩城街道の要衝の地として配置。徳川本家の将軍継嗣候補は出さない。頼房さま当初は1606年・慶長11年、常陸国水戸の徳川頼宣さまの分家として(頼宣さま・頼房さまは同母)常陸国下妻10万石に封ぜられ、頼宣さま駿河50万石に転封にともない、常陸国水戸35万石に封ぜられました。

義直さま・頼宣さま・頼房さま、領国を賜ったときは
いずれも幼少で駿府の家康さまの手元で育ち、
しかるべき年齢になってから入府したため、
上記のような入府年となっています。

頼房さまは3代将軍家光さまの1つ歳上なだけ、
ほぼ同じ年齢で、家康さまがお亡くなりになると、
頼房さまは江戸で家光さまのご学友的な立場で育ち、
義直さま尾張・頼宣さま紀州の領国へ赴く回数と比べて
頼房さまは領国・水戸へ赴く機会が少なく、
家光さまの聞き役として
副将軍(そのような官位はない)的な立場にあり、
それが後の「水戸家は江戸城府」という
伝統につながっていきました。

6 1609年・慶長14年ころの家康さまの宗教政策

1609年・慶長14年8月以後、家康さまは
京都の諸寺院に定めや法度を出しました。
これらは真言宗の諸寺に発言権や政治力を
持たせないようにするために、
諸寺は学問・儀礼に専念すべし、とのお触れでした。

  • 醍醐寺に学問相続目的で、東寺・高野山との交流を命じる三箇条の御当家令条

  • 高野山に古跡は学問のために相続することを定めた三箇条の御法度

  • 東寺長者には真言仏法興隆のために、東寺・醍醐寺・高野山が互いに交流し勤学にに努めることを要求

  • 関東の真言宗諸寺に関東古義真言宗法度

  • 相模の大山寺に三箇条の定め

その後、1610年・慶長15年3月ごろ、家康さまは
高野山の頼慶さまの粗暴な振る舞いを糺明し、処罰。
金剛峯寺宗徒には、門主の考えに従う・碩学の者
(学問に秀でた有識者)は下方に背かず新義を
立てないこと・学侶知行方は贔屓なく行うこと、などを
定めた、高野山寺中法度、を出しました。

また、関連する、法度をお守りの諸寺には安堵状を
出し、相応の寄付をなさいました。

1610年・慶長15年には
鎌倉五山すなわち、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・
浄妙寺と清見寺・臨済寺の僧に「群書治要」を
書写させそれら諸寺の意識統一を図り、また、
石清水八幡宮に五箇条の定めを出しました。

家康さまの宗教政策はいずれも、
#金地院崇伝 さま・ #林羅山 さまが家康さまの
相談役をなさっていました。

7 朝鮮国・琉球国・明国そしてポルトガル

1609年・慶長14年6月に、
朝鮮国・対馬の間に通行貿易の諸規定が確立。
この条約は江戸時代を通じて
朝鮮・日本・対馬との基本的な規定となりました。

7月には、家康さまが認めていた、
島津家久さまの琉球攻めで、琉球平定なった報告を受け
家康さまは、琉球国を家久さま領国とし、
その仕置きをお命じになりました。
これにより、江戸時代の琉球の日本国内での
ポジションが定まりました。

翌1610年・慶長15年に、 #島津家久 さまは
琉球王 #尚寧 さまを伴い駿府にいらして、
お二方ともども、家康さまがご引見なさいました。

ポルトガルと断交したのも
1609年・慶長14年のことでした。
また、翌年には明に勘合貿易を要求する
書簡をお送りになってます。

家康さまはさらに東南アジアの諸国とも
さまざまな国交をお考えになり、さらには
西洋諸国のこともお考えでしたが
それはまたあとでーー🤣🤚

8 次回

秀忠さまが2代目征夷大将軍となって数年、
家康さまは着々と外様の諸大名を
名実ともに徳川家に臣従させていきます。
その経緯や、いかにっ❓❗️

そして大坂にしっかり存在する
豊臣家のご様子やいかにっ❓❗️



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