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腐女子の『沙耶の唄』感想

2024年。ゲーム『沙耶の唄』が発売されてから20年が経つ今、やっと念願叶ってプレイしたので、どうにかこうにか感想をまとめてみたいな、という気持ちになった。正直全くまとまっていないのだが、興奮状態のオタクのメモなので、そこはどうかお目こぼしいただきたい。

まず結論から言うと、私はこのゲーム‪がめっっっっっ(中略)っっっっっちゃくちゃ好きだ。

自分語り的な話が少し続くので申し訳ないが、私はいわゆるメリバを愛好するタイプで、バッドエンドも割と好むタイプであり、しかし自認としては両想いハッピーが好きな光のオタク、という謎存在である。
これには理由があって、単純に私は何が“ハッピー”エンドなのか、よくわからないからだ。
両想いで当人同士がこれでヨシ!と思っていれば、でもそれ、周りから異常に見えていますよ?というメリバでもハッピーエンドな気がしてくる。バッドエンドも「きちんと両想いな時点でそんなに悪くはないよ」という気持ちになってあんまりバッドだと感じられないことが多々ある、という有様。
このことについて、正真正銘・ド光のハピエン厨のオタク友人と話していて、気が付いたことがある。

私は異常に寄り添い過ぎる。

優しい人アピールをしたいわけではない。というか多分、これは厨二病なんかの感性と地続きになっているような、醜い性癖やエゴや傲慢に近しいものだと思うが、そこは割愛する。

私は世界から異常と定められた者に寄り添いたくなってしまう。
沙耶の唄の話に戻るが、沙耶の唄の主人公二人はまさにこの「世界から異常と見なされる存在」である。
だから私は冒頭から狂気的な世界に身を置きつつも中途半端に正気を保つ郁紀に完全に同情的だったし、ずっと郁紀と沙耶に感情移入していた。
すると何が起こるか。
沙耶が!!!!!!死ぬほど可愛い!!!!!!!!!好きだァーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!うおおおーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!
こうなる。

メタ的に言うと、沙耶は「本来の姿は美少女ではなく肉の塊の怪物だけど、言動がこんなにも可愛いでしょ?」という、ガワ的意味の“美少女キャラ”に喧嘩を売るキャラである、と、勝手に思っている。
『ワンピース』において、尾田栄一郎氏が、シャーロット・カタクリとシャーロット・ブリュレを通して、「妹萌えっつーのは、可愛い女の子(妹)に萌えることじゃない。兄がいて、その兄を慕う、そんな《妹》に萌えることだろーがよ」とばかりに《妹萌え》の本質を突き付けてきた──少なくともオタクにはそう感じられる──という事案が発生したが、それに近いものを感じる。
個人的に沙耶に対してキュンキュンした思い出深いシーンとして、
・病院エンドで怪物の姿を見せることを拒否するシーン
・津久葉瑤に意地悪をするシーン
をトップタイとして挙げたい。
前者は乙女の恥じらいが可愛いから、後者は女としての嫉妬が愛くるしいからだ。異論は認める。だが私の対沙耶の感性は郁紀なので、これらのシーンは「沙耶が郁紀に恋をし愛をしているからこその心の動きを見せる象徴的シーン」でしかない。可愛い。本当に可愛いな、沙耶は。
沙耶の正体は化け物かもしれない。でも、郁紀の人間としての幸福を願って郁紀を治して自分は姿を消すという愛ゆえの自己犠牲ができるし、郁紀のことが好きだから醜いと思われるだろう姿は見せたくないし、郁紀のことが好きだから同じように郁紀のことが好きだった女に嫉妬して残酷なことをする。この内面を、「恋する乙女」以外になんと呼べるだろうか。
ゆえに沙耶は間違いなく「美少女」である、と私は思う。つまり可愛い。本当に可愛いな、沙耶は。

だが沙耶の物理的な正体は美少女ではなく、おぞましい怪物である。そこで浮かぶ当然の疑問として、「病院エンドで仮に郁紀が沙耶の真の姿を見たとして、本当に沙耶を愛せるか?」が、ある。
恐らく色々な派閥があると思うが、正直なところ、私は理性的には「どうだかなぁ」と郁紀に疑いの目を向けている。
だって郁紀は、狂気が加速した結果とは言え、羽化エンドで「え、コイツらは人間だって?でもコイツら、自分にはキッッショい化け物にしか見えないから、殺すのとかもなーーんにも気になんねえなあ!!」みたいなことを言っている。
その「キッショい化け物」の姿をしているのが、沙耶なんだけどな。と、思った。
だから正常な視覚を取り戻した郁紀が沙耶を見ても全く変わらずに愛し続けられるのかには、私は疑問を抱いている。

だが、私は異常な郁紀に、異常な沙耶に、やっぱり寄り添いたい。
郁紀が本当に沙耶の本来の姿を見て愛し続けられたのか、そこは郁紀と沙耶にとっては存在しない世界だから、考えなくていい。大事なのは、郁紀が沙耶の恥じらいの気持ちを汲んで、無理に姿を見たり、声を聞こうとしたりしなかったこと、なのだと思う。
郁紀が沙耶を愛しているからこそ行った行動だけがそこにあり、それが全てである、と。
なので病院エンドは純愛である。……①

また、羽化エンド・耕司エンドの沙耶と郁紀に関しては、「それ以外に選択肢がない状態での愛を、純愛と呼べるのか?」という問題もあると思う。
その問いに対してだけなら私は、一般の社会にごく普通に属する者として基本的に「うーん、まあ、ちょっと微妙だよね。選択肢、他にないならね。うん。」と思う。
だが郁紀と沙耶は一般の社会からの回答なんか必要としていない。郁紀と沙耶が自分たち2人だけの世界以外を切り捨てた分岐が、羽化エンド・耕司エンドだからだ。ゆえに、郁紀と沙耶が「愛してる」と囁きあって、それが唯一絶対のものだと信じているのならば、もうそれは純愛だ。
なので羽化エンドは純愛だし、耕司エンドも純愛なのだ。……②
①、②より、全ての分岐において郁紀と沙耶の関係は「純愛である」と捉えることができる。

だから『沙耶の唄』は純愛ゲームだ。QED。

純愛って…そんな、傍迷惑な……と二人に呆れる気持ちもある。同時に、愛の名のもとに暴走特急となって互いだけを視界に入れながら破滅の道だろうと爆走する沙耶と郁紀の姿が、少し眩しくもある。
だがやはり、私はただ異常な郁紀と沙耶に寄り添いたくなるだけで本質的には彼らとは相容れないごく普通の民草だから、涼子や耕司の言い分もわかる。
何も悪いことをしていないのに酷い目に遭い続ける津久葉を可哀想だと思う気持ちはある。それに真っ当に生きてきた耕司が真実の前に狂う姿に、泣いたりもした。耕司……!!
こうやって耕司に感情移入すると、郁紀は本当に狂っていて恐ろしいものに見える。一刻も早く死ぬべき人類の敵であるように見える。
だが元を辿れば郁紀はただの偶然の事故の被害者で、あんな風に狂った認識の中に閉じ込められるべき咎もなく、あまりにも可哀想だったはず。だからせめて沙耶との関係を純愛だと信じたままで死ねるというささやかな救済くらい、あってもいいのではないか。
それでも、いくらなんでも郁紀は沙耶のために罪を犯しすぎた。
でも、愛する人のためになんでもするって、なんて根源的で単純でまっすぐな「好き」の形なんだろうと、やっぱり少し眩しさを感じる。

沙耶の唄は、郁紀と沙耶だけでなく、周囲を取り巻く人物の視点からの描写もかなり多い。だからこうやって思考が、感情がぐちゃぐちゃになるんだと思う。
結局感想は上手くまとまらなかったが、上手くまとまらないほど色んなことを感じさせるから、『沙耶の唄』は名作なのかもしれない。


私は腐女子なのでBLゲームはいくつかプレイしたことがあるが、男性向け18禁ゲームには今回初めて手を出した。
そして、思う。記念すべき生まれて初めてのエロゲが『沙耶の唄』で、よかった。『沙耶の唄』をプレイできてよかった。

私は、『沙耶の唄』が、めっっっっっ(中略)っっっっっちゃくちゃ、好きです。

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