見出し画像

読書会体験

読書会の仲間と文学書を読むことは、もう立派な遊びになっている。読書は一人の孤独な営みだけど、読書会はそれぞれ読み取った経験を自己表現する場になっている。その中から取り出される、その人によって意味付けられる解釈に味わいがある。趣が感じられる。深く納得される読み取りの発見があったりすると、一段と濃い空気に変化する。自分だけの読書から数倍豊富になった読書経験が得られて、みんな少しづつ成長するように感じられる。この前の読書会では、石垣りんの「子供」という詩と、インドの作家ブレームチャンドの「私の兄さん」と、ナイジェリアの作家チヌア・アチェベの「終わりの始まり」を読んで、それぞれの感じたことを話し合った。新しく名前を知る詩人、作家との出会いは、それまでの現実をどこかで超えていく。決して分かりやすさに流されず、異質なものとの出会いを楽しむひと時の遊びは、読書会という文学コンテンツになっていると思う。

読書会を定年後やってきてもう七年経ったことになる。最初は高校の時の同級生と二人でやり、三年ほど前から地域の公民館の読書会に参加して今は会長となり、読書会の主催者の立場になっている。読書会はネットで散見する記事によると、静かなブームになっているらしい。日本で最大の読書会主催者の本が新書版で出ていて、佐藤優が書評を書いていた。一人で本を読むからみんなで同じ本を読んで話し合うへ、時代が変化しているのかもしれない。ただ読書の基本は一人で読むにあると思うし、それは時代が変わろうとも変わらないと思う。なぜなら読書会の場合も、まず一人で読み終わってから始まるからだ。

どういう読み方をしても構わないという前提で、あえて二通りの読み方を吟味してみたい。それはぼくの読み方としばしば対立するもう一方の読み方の二つである。読書会例会のある日、盛り上がる読書会とそうではない読書会の違いは何かという話になった。前者は自分の読んだ感じをそれでよしとする主観的読書で、後者は自分の感じ方は置いておいて本当に読み取るべき内容があるはずだとする客観的読書だ。前者は参加者が対等に話ができ盛り上がるのに対して、後者は一人の先生格の人の「本当」解説が場を決め、盛り上がらないということになった。ぼくより長年読書会をやって来られた先輩のかたは、どちらかというと後者であり、ぼくは前者である。言わば読書に何を求めるかに関わってくる問題になる。ぼくは読み方は自由だが、読む本については自分を成長させてくれるかを基準にして、読む本を選ぶ立場である。古典や信頼している情報源の推薦図書が当然多くなる。客観的読書をとる人は、読み方も信頼している人に頼っている気がする。だからそんなに違いはないのかもしれない。過程を重視すれば主観的読書で、結果を重視すれば客観的読書という風に分類もできるが、ぼくとしては読書も自分を生きる過程の一つとして、過程を間違いも含めて経験してみたいのだ。ついでに言えば、客観的な本当などもうこの世にはない、と覚悟しているのでもあるが、、、

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?