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読書が人生の脱落から救った

ぼくは高校一年の時に継続して本を読み始めた。その時の感じは、今思い出そうとすると夢のような非現実感がある。睡眠時に見る夢とは違って、どちらかというと客観的だ。客観的という言葉は夢の場合に使わないと思うが、小説は作家が言葉で組み立てた世界なので、小説を読んでその世界に巻き込まれて行く時の感じは夢のようなのだが、その世界は一冊の本の中に客観的に存在し続けている、ということだ。その当時、世界文学全集が出ていて赤い表紙の豪華な装丁の本が友人の本棚にあった。ぼくのうちには全集などという文化的な資源はなかった。貧乏だったからというのもあるが、親父は職人で教養的なものからは遠かった。中学三年になってから成績が上がり出して、県内では2番目の進学校に受かってホッとした時期に友人宅の世界文学全集に目が止まったのであった。これを順番に読んでいこうという目標を持ったのだ。現実の地方の裕福ではない家庭で育った環境とはまるで違う世界が、読んだ本の中にあった。多分ぼくはそこで、本の世界の方が豊かで冒険と人生があり、価値あることは日常生活している世界にはなくて、文学の方にあると思い込んだのだろうと思う。今思うと、それが間違いの元だったと思う。自分自身の将来を具体的に描くという、この時期に大切な人生選択の機会というものがなおざりにされたからだ。高校の卒業アルバムにあるクラスの寄せ書きに、漱石の「草枕」からの引用を書いている。「智に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」と。それは未成年が引用すべき文章ではない。でもぼくは小説を少しは読んできて、人生が分かったような気になっていたのだ。この事実をどう捉えるべきか、という問題は自分の人生を三分の二以上経験してきた今、解いてみなければならないことに思える。よくある話さ、で終わらせたくない。小説を読んで分かったような気になる、ということを一つの未成年の心理現象として、あるいは文学の属性の一つとして、良くも悪くも一つの精神現象として考えてみたいと思っている。

文学との出会いと自我崩壊の危機の時期は重なっている。自我崩壊の危機の時期は生涯3回ある。高校1年次に最初世界文学全集と出会い、10冊ほど読み進んだあと現実感覚がおかしくなって登校拒否の事態を招いたのが1回目。サラリーマン生活中盤で、社長からのパワハラで鬱になってその回復のために読んでいた時期が2回目。そして定年退職したあと、居場所がなくなり精神的な基盤を求めるために地元の読書会サークルに入ることにした時期の3回目である。こうやって振り返ると読書というのは、日常生活から離脱して不安定になる状態と相関するということが言えると思う。最初は全く無防備で、文学の世界が新鮮で自分がどんどん成長していくように感じられた。読書による内面世界がどんどん大きくなって、日常の学校生活の方が小さく感じるようになっていたのかもしれない。受験勉強がだんだん付いていけなくなっていた。サラリーマンの時の危機は、社内の出世競争環境から脱落することで内面の独立要求が生じ、それと文学が結びついていたのだと思う。それは文学ばかりではなく、唯識仏教やトランスパーソナル心理学への関心にも向かっていた。定年退職した当時は、環境の変化から一度社会から離脱するのと変わらない体験をしたように思う。サラリーマンになる以前に戻って再度自分を立て直すために、内面の世界を文学で再建する必要があったのだと思う。
このように見ると文学ばかりではなく宗教や心理学も含めて、精神活動には欠かせない読書によってぼくは自分を作って、人生を社会から脱落することもなく送ってきたとつくずく思うのである。

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