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大学のクラス会に出てみた

あったままの過去をみんな忘れているから、自分の過去は自分のものとして作り替えることができる。それは上手にウソをつく小説と相性がいい。私小説というのはそういう個人的な過去詐称の創作なのかもしれない。ぼくは美術大学を卒業していて昨日何年目かのクラス会があった。卒業して49年目のクラス会だが、ぼくが出席したのは4回くらいだろうか。まだサラリーマンだった時に参加したことも1回あるが、その時は小さくなっていたと思う。服装もスーツのままだった。そういえば先生も参加されていた。1年次の担任だったY先生に挨拶した時も、先生は元気が良かったがぼくは元気がなかったと思う。サラリーマンの自分が嫌でどうしても引け目を感じていた。でも掛け替えのない自分は、そういうサラリーマンの自分を肯定して生きていかなければならない。嘘をついてはならないのだ。他人は騙せても自分は騙せない。

過去を全く忘れてしまう、という方法も確かにある。それも偽りの人生にならないだろうか?とにかく自分が主人公となる必要だけは確かだ。過去を忘れるにせよ、過去との対決をするにせよ、決めるのは自分自身だ。正直に書こう。やはりぼくは美術への選択は甘かったと思う。絵を描くことが好きなわけではなかったし、ずば抜けてうまかったわけでもない。好きで誰にも負けないというほど真剣な奴には負ける。そんな道に進んでしまったことが間違いの元だった。ただそれでも人生を踏み外すまでのことはなかった。美大以外に具体的な目標らしきものが見えなかったし、あの頃真剣に考えるとむしろ落ち込んでしまいそうな心境だった。何をやりたかったのか分からなかった。どうしたら分かるのかも分からなかった。

昨日、美大のクラス会に出た時、以前よりは自分らしくしていたと思う。サラリーマン時代に染み付いていた身体性と不自由さからもう完全に解き放たれていたと思う。それで良かったのだ。もっともっと自由に生きていくことが、自分の人生を作っていくことだと思う。もう過去など思い出す必要もないくらいに自由になればいいのだ。

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