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使用人としてのサラリーマン

かつて自分史の中で、社長のひと言によって人格が否定された時鬱になったと書いたが、実際には医学的な鬱にはならなかった。つまり医者に行かなかったので病気として認定されたわけではなかった。でも慢性的にひどく気持ちが沈んだ状態であり、元気を出そうと思えば元気にもなれるがその気になれなかった。もちろん自信というものが一切なくなるのだから、とにかく何か確かなものというか、ことが欲しかった。

社長のひと言になぜ極端に反応したのか原因を探ってみるという方法がある。ここでは社長が言った言葉は言いたくないので書かないが、どのようにぼくが受け取ったかは書くことができる。それはぼくが社員じゃなく、使用人の身分に過ぎないと思い知らされたのだった。現代の契約では雇い主と被雇用者は対等とされている。しかし契約後は主人と奴隷の関係に置かれうる。つまり可能性としてあるが、状況によっては現実になりうるということだ。歴史の授業で、資本主義社会は江戸時代のような封建的社会が革命(日本ではなぜか維新という)によって崩壊してできたと習ったはずだ。ところが資本主義は自分に都合のいいところは、封建的にして残すのだ。今だからそのように言葉にできているが、当時は悶々とするばかりで、もちろん自分は使用人だと認めるわけにはいかなかった。会社を辞めれば解決するのだろうが、そこまでの勇気はなかった。地方の中小企業の社長はどこも同程度だろうと思われた。

さて、使用人の自分を否定すべく自分を確立するために本をむさぼり読むことになるが、まず屈辱感があってその感情を癒す必要があった。その頃ラジオを聴くようになりNHKのこころの時間という番組で、唯識を学ぶ講座があって半年ほど聞いていた。その間に少し楽になった気がした。講師は岡野守谷という人で、トランスパーソナル心理学と唯識仏教との、つまり東洋と西洋の、古代と現代の融合という視点を持つ宗教臭くない人だった。自分の心の中がかなり解明されて分かった感じがした。唯識はある意味で社長からのプレゼントだった。

唯識を学ぶことによって、自分のこころがいわば緊急の避難所になった。とりあえず自分のこころに引きこもっていれば安心できたので、会社からの帰り道の書店で、今度は哲学関係の本を見つけることになる。もともと考えるのが好きな性格なのと、哲学には原理的に解決策を考え出すところがあって、答えには個人差のような曖昧性が入り込まない利点がある。ぼくが出逢った哲学者は竹田青嗣で、この人は哲学科出身でなく、フッサールを独力で読んで西洋哲学を「解明」した経験から、有名な哲学者を分かりやすく解説でき大いに勉強になった。初めて哲学が分かったような気がした。少し哲学に馴染むと、なぜ社長の言葉でぼくが存在を脅かされるほど動揺したのか、何がそこで起こったのか論理としてたどれるようにしたいと思った。論理的に決着をつけたかった。ぼくは就職はしても技術や能力を提供すれば良いと考えていたのに、社長はぼくの存在までも所有しようとしたと考えた。立場は対等とするぼくの態度が気に入らず、自分の支配下に置こうとしたのだと思う、、、、、

いや、そういうことではない。過去の起こった事をそのままなぞろうとしても意味がない。社長とぼくの間に起こった事はぼくの生き方の延長線上で見なければ「人生の意味」にはならない。それは物語の形式で語られる必要がある。人が生きていくには物語が必要だからだ。社長は経済的物語の中で、ぼくを評価し生き続けるだろう。しかしぼくは別の物語を作ろうとしている、そう、資本主義の一般論が通じない世界で物語を綴るのだ。そのためにぼくは書くことを覚え、サルトル哲学や村上春樹などの小説を読んできたのだ。

このnoteでは自分の心に埋もれている事柄を、あるきっかけから探り当てようという欲求が生まれ、心の赴くままに書いてみようとすることが多くて、今日もそんなきっかけが訪れたので書いてみたいと思う。今日車から見える金沢の風景が優しそうに感じられたのが、そのきっかけなのだが、それは今日のぼくの心が穏やかだったことの反映に思われる。心を一つの器と考え、器から外に向かうのをinside out、外から器に向かうのをoutside inと呼ぶことにすると、inside outの方が気力が充実して自分を取り戻せていると感じる。逆にoutside inは外に何もなくて寂しい感じがするのである。外から何かを取り入れようとするのだが何にもないように感じて、寂しくなるのだ。inside outの方は心の中が充実しているので、外も生き生きと穏やかに見えるのだ。ぼくの人生を振り返ると大学を出て就職してからがoutside inに転換したように思う。社会人になるとoutside inばかりになった気がする。

今定年退職して年金生活者になってみると、inside outにまた転換しているような感じがする。ほとんど外のことを気にしなくても済むようになって、器の中にずっといて、いろいろな事柄を溜め込んでいるからかもしれない。outside inの時は金沢が田舎のように感じて東京に憧れていたと思う。しかしinside outの今は金沢が肌に合ってどこも自分の庭のように感じる。東京への憧れはなく、金沢とあまり違わない気がする。要はこころ次第ということ。それはただ心だけとする、唯識の教えでもある。

inside outを一言で説明するとすれば、目標を持って計画通りに実行することだと言える。内側に溜めていたものを計画を立てて、外に出す流れがinside outなのだ。ある意味外はどこでもいい。とにかく最初はどこでもいい。うまくいかなければ別のどこかにすればいいのだから、、、

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