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定年後は悠々自適ではなかった

この前のnoteで最近自分に訪れた心境が悠々自適という、定年後隠居して自由になることのように類推してみたがどうも違うらしい。城山三郎の「部長の大晩年」を読んでみたが、俳句や骨董収集での趣味三昧が一般的な悠々自適イメージだとすると、ぼくは違うことに気づかされた。「毎日が日曜日」は面白かったが、「部長の大晩年」はつまらなく3分の1くらいを読んでやめてしまった。俳諧趣味の大企業部長より、世界を股にかける総合商社の豪腕な会長の方が魅力的だった。仕事一筋のプロフェッショナルの方が、遊びと仕事の両立を図る洗練されたビジネスマンよりどこかでぼくの好意を引きつける。但し両者とも善意の人でなければならないが。「毎日が日曜日」に登場する役員たちは超が付くくらいの働き者で、率先垂範の人たちであり、ぼくが地方のオーナー企業で接した使用人を働かせるような感性の田舎者とは人種が違っていた。少し脱線したが、ぼくの悠々自適は、余裕や遊びの感覚ではなくもっと現実に密着して強い力を秘めている思考の中にあるもので、そこに自由自在であることで悠々自適なのだと思う。それは批判意識の充実とか自信とかということによる余裕であって、生活の余裕ではない。その意味で、小林秀雄の悠々自適と通ずるものがあるかもしれない。

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