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書いてみることで自覚される人生

河合隼雄がある講演で、自分は長い間「河合隼雄」という男と付き合っている、それが面白くて興味が尽きないと、嬉しそうに語っているのを目にしたことがある。自分を素材にして心理学の研究対象にして来たのだろうと思うが、ぼくには自分とのその距離の取り方が面白かった。

ぼくも生まれてこのかた、「日比野翔」という男と付き合って来ているが、そろそろ若者ぶるのを辞めさせないといけないかなと思い始めている。もう青春に帰るのも止して、年寄りの仲間入りしたらどうかと思う。つまり自分にナルシスティックにこだわるのも、いい加減にしたらと言いたくなった。

自然に自分を世間に晒して他力を信じてみるのもいいかなという気分になっている。他力って本当は難しいのだろうが、楽になるような気がするのは当っていると思う。身をまかせることに賭けて見る方が面白いかもしれない。最終的には自分が責任は取るわけだが、流れを作って任せるのは冒険だし、自分を鍛えることになると思う。



メランコリーな少年が、強制収容所生活を経て、刑期を終えて出所後に、ようやく自由に生き始める人生が自分の人生のように思える。それは自分の心の声を唯一の真実として、湧いてくる想いに忠実になることを方法として「書いてみること」で自覚された人生だ。

現実の自分を素材にして、時代と身体と国家の中で自由を目覚めさせる、哲学と文学の偉大な力を借りて行う冒険でもある。現実の自分は卑小なモルモットにすぎないが、本を読むことが出来るし、母語で感じて考えたことを書くこともある程度出来る。日本人として生まれたが、既に世界の情報に日々晒されて世界同時進行の環境の中にいて、無国籍な感性に育ち、受容する事実に耐えられずメランコリー体験の後、形式としての日本人になった。

生きるに必要な武器は情報、思想、歴史を読み解くリテラシーであり、必要な信条は自分と家族と仲間を失わない行動と、他者への愛とフェアネスである、、、と、ここまでは書けた。大筋のぼくの物語だ。

さてどうやって物語を始めるのか?始まりはどこにあるか?始まりは、ぼくの生きている今にしかない。物語であってもありのままの現実が出発点になる。かつて、小林秀雄は、小説を小説と思って読むなと言った。小説という物語は小説の現実の背後に生の現実があり、小説を通して生の現実の方を読まなければならないと諭した。もっともなことだ。

生の現実のぼくは、強大な見えない暴力と真実を覆い隠すマスコミのもとに無力だ。いや違う。もっと何も見えなくて、あっけらかんとした平板な日常だ。このままでは他人に動かされ、自分の人生を盗まれそうだと気づいて、目覚めた人になろうと決めたことをここでもう一度振り返りたい。



、、、「日はまた昇る」を歩いて5分で行ける市の図書館から借りて読み始めていた。2年前は隣の市の図書館で読んでいた。その頃は図書館をあちこちハシゴしていて、図書館の雰囲気の違いを体に染み込ませようとしていた。退職して経験することが限られていたので少しでもバリエーションが必要だったのだ。あの日読み始めると最初読んだ頃の感じが蘇っていた。図書館で読むのと、図書館から借りてきて自分の家の部屋で読むのとでは感じ方が違うし、もっと多くのことが違っていた。

翻訳小説の場合、日本の小説とまず違うのは登場する人物を把握して文中を追いかけるのに苦労する場合があることだ。この読む体感の滑らかさは、小説の中に生きようとする読者にとっては割と本質的なものになる。2回目に読んだ方が断然スムースになる。理解も違っていた。

「ユリシーズ」と似たものを漠然と頭の片隅に置いていたが、ダブリンとパリでは違いすぎるし登場人物の芸術家っぽさもヨーロッパ人とアメリカ人では全然異なる。「日はまた昇る」ではブレットという自由奔放な美貌の女性が登場するが、「ユリシーズ」にはヒロインは登場してなかったと思う。していたのかもしれないが記憶にないということは重要な扱いをされてないということで、ヘミングウェイとジョイスの気質の違いなのかもしれない。(調べてみると「ユリシーズ」13章にガーディという美少女が登場するが挿話の形になっていた。、、、しまった。ブルームの妻のモリーのことを忘れていた。)

そもそも違うのは当たり前なのだが、芸術家の卵たちを取り巻く雰囲気は似たものがある気がしていたのだったが、あては外れ、うまく「日はまた昇る」の中に入れなかった。というより入ってみて追体験し続けることが躊躇された。何かがぼくの目論見とズレていた。ぼくの書く形式がジョイスの方に幾分か近く、ヘミングウェイの方には隔たりがあったということかもしれない。(随分偉そうなことを書いている気がするが、ここでは自分が書き続けることの意味を優先するのでよしとしよう。)兎にも角にも自分は小説を書いて生きなければならない人間からだ。

さてこの特殊な生き方は実験的な小説を書くという、ぼくの覚悟と文学に対する愛によってしか支えられないフラジャイルなものだ。ほんの数回で軌道修正しなければならないような、頼りないものでぼくの行き先は本当に未来があるのかも見通せなくなってきた。わかったのは「日はまた昇る」の方ではなさそうということだけだ。

そこでもう一つ思い出す小説がある。カフカの「城」である。こちらも最初の5分の1程度で読むのを中断している。でもカフカに返ることでぼくの生き方も足元を固めることができるかもしれないというわずかな期待を抱く、、、

昔、本谷有希子の講演を聞いたことがあって、彼女でさえ受賞し始めるまで10年かかり、候補に上って落選する回数が二桁を超えているとさりげなく語っていた。それほどの業界なのだ。


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