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アメリカ東部の「毒」

どういうことが書けるか分からないが、今のぼくのこころの微かな衝動のままに書き出してみる。衝動の原因の一つが自分のブログにあることは確かなように思える。Great Gatsbyを英語学習テキストとして使っていることを取り上げて、英語の興味を更新させるつもりだった。継続してGreat Gatsbyを読めるように動機付けるつもりだった。ところが英語だけでなく小説としてのGreat Gatsbyを改めて考えてしまったようだ。

先に村上春樹訳の「グレートギャツビー」を読んでいて、村上春樹が自らも「騎士団長殺し」を書いたり、「ノルウェイの森」でフィッツジェラルドのすごさを永沢さんに語らせていたほどなのはどうしてなのかを考えたのだと思う。村上春樹は「グレートギャツビー」を読んで自分も小説を書こうと決意したくらいなのだ。その理由をこれまで考えて来なかったし、「グレートギャツビー」のすごさを読み取れて来なかった気がする。

今日改めて1920年代のアメリカの繁栄の陰にあった、陰惨な傲慢さのようなアメリカの「毒」にあてられたような感じがする。その「毒」と、現下のウクライナの戦争の陰に潜むパワーが同類に感じられたのだと思える。自分の心の中を分析するとそう思えるのだった。

ギャツビーが殺されて寂しい葬儀の後、主人公のニックは生まれ故郷の中西部に帰るのだが、そこでの事件後のショックからの立ち直りの部分がある。「結局のところ、僕がここで語ってきたのは西部の物語であったのだと、今では考えている。トムもギャツビーもデイジーも、ジョーダンも僕も、全員が西部の出身者である。多分我々はそれぞれに、どこかしら東部の生活にうまく溶け込めない部分を抱え込んでいたのだろう。」

東部の成功した奴らの根本的な冷たさがぼくの心を暗澹とさせたのだ。それに比べればロシア人の温かさの方が好きだ。、、、ぼくのこころの奥底にはそんな想いが燃えているのかもしれない。とにかく、ぼく自身の精神分析で感じられることに過ぎないのだが、、、

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