見出し画像

一歩一歩進むのが現実的

ぼくの残りの生涯を賭けた目標の達成計画の中で、地域の(公的な)読書会を設立というのがある。あるというより最近決めたばかりなのであるが。この計画にはさまざまな問題が埋まっていることが予想される。読むべき本の選定をどのように行うかなどはすぐ考えられる問題だが、もっと自分の達成能力がそもそも問われる課題をまず取り上げてみたい。それは開催する読書会にどう人を呼び込むか、そのために必要な魅力ある課題本の紹介という主体的な能力問題がある。果たしてぼくは予め未読な人に向けて自分が推したいと思う本の要約と魅力ポイントを文書化できるだろうか。それができなければ元より、そんな生涯を賭けた目標など絵に描いた餅にすぎなくなる。言わば目標の前提条件のようなものだ。

読んだ感想などはこれまで書いてきて馴染みである。しかし読んだ本の内容を要約するのは感想などとは別の能力だ。要約の中には、あらすじも含まれる。あらすじはかねてから苦手だった。おそらく完全と言っていいほどに全体を理解把握できていないと、要約は無理なのではないかと思われる。だったらまずそれから能力を研いて身に付けなければならないのではないだろうか? 一歩一歩進むのが現実的であるし、最初の一歩が肝心なのだ。そうだ、まずその事を考え続けよう。

地域の公的な読書会を設立したいという目標を作ったが、読書会といっても文学でなければならないし、文学は純文学ではならないことが、目標を吟味していると明らかになった。定年退職後に知的好奇心が衰えてない人が求めるのは、野々市市みたいな地方都市だと「寿大学」のようなものしかないのが現状だ。今日、公民館で今年度の生徒募集のパンフレットを見てきたが、写っている人たちは確かにイキイキとしていたが、どこか我々のような文学好きの顔とは違って見えた。彼らは先生の講義を熱心に聴くような方々だ。ぼくの求める仲間は、先生の話は聴くけれど大いに自分の話もする。読書会は誰か先生のような一人の話者がいるのではなく、参加者一人一人が話者なのだ。そこは小さいようで大きな違いのように思える。本を読んで話ができるのは、主人公や登場人物に自分を投影して参加できるからなのだ。そんなことは寿大学では経験できない。自分を持っている人と自分がないか捨てている人との違いかも知れない。文学好きの人はどこかで自分を捨てきれないでいるのかも知れない。ぼくはそういう人の方に魅力を感じる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?