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私の中の公共的な感性について

始めは何でも、どんな風にでも書いてみて、次にその中から輝いていて、主張としてアウトプットしたいものを見出してまとめる。情動に形式を与えると言い換えることが出来るかもしれない。情動に何が含まれているか、言葉以前のモヤモヤしたものが自分を前進させる。今そこにあるのは言葉以前の何かだ。生命力、自我、エロス、待ち侘びていたもの、想像力の源泉、創作の秘密など、さまざまにそれを示すことは出来る。

ここで一つだけ限定項を設定しよう。それは自分の足元に広がる基盤のような範囲である。私という主体に物理的、感覚的に影響を与える場所として、限定を課す。私はおそらくカントのように一つの場所にとどまり続ける人間だ。そこで村上春樹の方法のように井戸を掘る。そこで歴史が見えてくる。日本の中世、この地は一向宗が治めていたらしい。私は両親それぞれの家系から血を受け継いでいる。父方の方は幾分文化的なピークを形成している。祖父はシベリア出兵に参加し、軍刀を床の間に飾っていた。母方の方は山間部落で材木屋を営み財を成した家系だった。母は八人兄弟姉妹の六番目だった。三人兄弟の二番目の父と金沢で結婚した。

井戸を掘りすぎたようだ。もう一度井戸から上がって最初の地点に戻ろう。今感じている情動の中へ。井戸から出ると背戸と呼ばれる中庭がある。その閉ざされた小さな空間は私の学生時代まであって、ちょっとした息抜きの場所だった。そこで洗濯物を干していた。中庭に面した離れを金大生の女学生に貸していた時期があって、何も知らずに中庭に出たら、彼女の下着が竿に干してあったことがあった。思春期だった私はふらふらとそれに近づき顔を触れた。ただ洗剤の香りがしただけでむしろ清々しい感じがしたのを覚えている。

また脱線した。私は公共性という概念について根本から考えてみたかったのだった。公共性に自分が結び付けられていると感じているからこそ、定年後の生活が社会性を帯びて独居老人への道から外れることができている。公共性は市場原理からは離れて存在する。東京一極集中からも逃れることができる。自立と独立性の根拠を与えてくれる。ローカルがグローバルの根拠地となる資源を提供するという、中身を知りたい。とりあえずは、文化的な中身だ。それは何だろう?多様性の中の差異。ユーミンが金沢に見たローカルでグローバルなものとは?吉田健一が金沢に魅かれた情緒とは?それは幾分なりとも私の感性の中に生きるものだと信じたい。

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