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「変わらない」ことの限界点。いっそ流されてしまえば?

今日は11月らしからぬ陽気。ふわんと笑みがこぼれます。
久しぶりに窓も開けちゃった。気持ちいい、風の匂い。

さて、今日は『執着せずに変わっちゃえ。流されたっていいんじゃない?』という話をします。
そう頑なになりなさんな、と。

「変わらない」って疲れる

昔、郷ひろみさんがテレビでこう語っていた。
(記憶を手繰っているため、少し私の解釈が混ざっていることは容赦いただきたい)

「僕はみんなから”変わらないですね”って言われるけど、それって”変わり続けてる”ってことだと思うんですよ。何もしないでいたら、どんどん変わっていっちゃう。僕はいつまでも変わらないように、変わり続けているんです」

これはたしか、司会者の「郷さんはいつまでも若々しいですね」という投げかけへのアンサーだったと思う。
彼は強い意志と努力を持って「あの頃と変わらない僕」を体現していて、そのおかげで、ファンや視聴者はそのヒロミ・ゴウの姿に安心する。
なんてかっこいいんだろう、と感動したのを覚えています。

さて、私には、頑固で素直じゃないところがある。
変化を望みながらも、変化を嫌っている。
アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような状態。

「そういうとこ直したいなぁ」と思いながらも、まぁ自分に対しても頑固で素直じゃないので、ここで「変わる=自分を曲げる」ことへの抵抗がムクムクと…

自分に対してもこんなくらいだから、誰かからアドバイスをもらっても、それまでの自分を否定するようで(されているように感じて)、そのとおりに動きたくない。と反発してしまう。それはもう、無意識に。
我ながら厄介で可愛くない性格である。

これが、とっても生きづらい。
家族、恋人、職場、友人……自分以外の人間と関わる以上、何も影響を受けないなんて不可能な話。
少しの変化を避けて通ろうとすればするほど、膨らむ停滞感。
色んな矛盾や立ち行かなさにぶち当たって、胸が苦しくなる。

郷ひろみとは違って、私の場合、そこに「意志」はない。
無意識が働いているだけ。

ああ、「変わらない」って疲れるな。
「変わらない自分」に執着するのって、しんどいな。
そんな状態の自分に疲れ切っているのに、やめられない。
最近はずっと、そんな疲弊感に溺れていました。

何か信念が隠れている。なんだろう……と考える。
それで、ふっと腑に落ちた。

「変わる」と「折れる」はイコールじゃない

私の「頑固で素直じゃない」の根底には、「優柔不断で流されやすい」という自分の短所を隠すため…という目的が潜んでいる。
「私はすぐ人の意見に左右される、弱い人間なんです」ってね。

私が持っている信念。

人に流されてはいけない。
自分をしっかり持たなければ。
最初に決めたことは最後までやり通さなければ。
人に言われてすぐに折れるようではいけない。

裏を返せば、

私は、すぐに人に流される。
自分がない。
最初に決めたことを最後までやり通す強い意志など持っていない。
人から言われたらすぐに自分を曲げてしまう。

と、自分を定義しているんですね。
自分が一番、自分を「弱い人間」認定している。

だから、誰かが吹き込んでくれる新しい風、例えば考え方とか、価値観とか、行動の仕方とか。
そういうのを締め出しておかないと、自分がブレてしまうような感覚になってしまう。
触れたら最後、自分なんかいなくなっちゃうんだから、と。

他人の言葉を受け入れて実行することは、イコール敗北への片道切符…みたいな。
極端な話、「私が間違ってました」と土下座するくらいの悔しささえ感じている。(やっぱりちょっと大げさかな、でもそんな感じ)

道理で、何年も変わり映えしない毎日を送り続けているわけだ。

「変わらない自分」を守り続ける意味

もう一つ、変わりたくない理由があった。

昔から私を知る人たちに、安心していてほしい…という思い。
久しぶりに会った旧友や家族から「あなたは変わらないね(にっこり)」と言われる自分でありたい…と、私は望んでいるみたい。

「変わらない」って、自分もだけど、色んな人を安心させる。
反対に、「変わる」って一定の人たちを寂しがらせることだとも思う。

……と、一見、彼らのために「ね、私、変わってなくてホッとしたでしょう?」と安心感を提供しているように見えるけれど、これも実のところ、自分の安心のためにしていることで。

冒頭の郷ひろみさんのようなかっこいい理由ではない。
自分のために「あの頃の未熟でも真っ白で真っすぐだった若き日の自分を芯に据えたまま、大人を生きている自分」を演じたい。それだけのことだったりする。

考えれば、旧友をはじめとする彼らにとって、私という人間と関わる「1回」なんて、実はとるに足らなくて。
その人の知人・友人が100人いたら、私はその100分の1に過ぎない。
日数で測るならば、その人が年に1回しか会わない同級生なら、私という人間は365分の1程度の存在。
大したことないのです。

長年執着した挙句に元も子もないことを言うようだけれど、彼らが放つ「変わらなくて安心する」という言葉だって、ただ気軽に言っただけ。
10秒後には忘れている程度の重さ。

むしろ私のほうが、大切な「あの頃」をギュッと抱きしめ続けるような思いで「変わらない自分」に執着していたんだな。
そう自覚したら、「変わらない自分」にこだわる理由がひとつなくなった。

さあ、私はどうしたい?

変化上等。一回、流されてみましょうぜ

変化を嫌ってきた私だけど、実のところ、「今の自分を守ってじっと同じ場所に留まること」を望んでいないみたい。
なんというか、感覚的に、あまり「いい感じ」がしていない。
息が詰まるようで、もう苦しい。

住む環境を変えても、笑顔で明るく振る舞っても、どこかでストップがかかる。
そろそろ新しいステージに進みたいし、優等生で慎重派の自分をぶっ壊したい。
たぶん、私はもともと深く考えるのは得意じゃない。案外楽観的(どうにかなるさ、やっちゃえ・いっちゃえ派)。
だけど、どこかの時点で設定した優等生キャラを守って、変わらずやってきたところがある。

ずいぶん長いこと、頑なに「変わらない自分」に執着してしまったけれど、それももうおしまいだ。

これからは幼馴染から「意外!」と驚かれるようなこともどんどんやってのけるし、黒い髪だって染めちゃうもんね。

アドバイス、人の話、どんどん聞いてこう。
今まで遮断してきた外部の刺激が、自分の受信機を通してどう変換されるのか。
それで進化するのか、ただ転ぶのか。そんなの知らん。
壊れたら直せばいい。

流されて丸め込まれて変化を起こしてみて、「それでも変わらないもの」が自分の芯になるのだと思う。
このプロセスをやらないと、納得できる自分なんて見つからんよね。

毎日手に取って捨てて、また拾ってを繰り返せばいい。
強気でいこう。

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