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私をクソだと言った経理のあいつ

 人はみな勧善懲悪が好きだ。

 幼い頃から漫画やドラマなどである意味洗脳に近い教育を施された私たちは、不平等や暴力や卑怯さを忌み嫌い、自分はそうなるまいと息巻いている。多くの人は自分のことを善良な人間だと思い込んでいる。

しかし、果たして自分が善か悪かと明確に区別することはできるのだろうか。例えばオセロのように一目でそれが分かればいいのだが、人間は無数のグラデーションでできている。善良な自分もいれば、周囲から嫌悪される醜悪な自分もそこにいるはずだ。

いつでもどこでも善良な人間などというものは、創作物の中にはいるかもしれないが、現実世界では到底実在するとは思えない。もしも存在するとしたなら、その人物は恐らく極度の思想的潔癖症であり、世の中の不条理に耐え切れずこの世を去ってしまうだろう。

私たちが生きている世界は無菌室のように無垢ではなく、数多の細菌にまみれて構成されている。そんな環境に適応するためには、自分自身もある程度免疫を持つ必要がある。少なからず汚れに適応していかなくてはいかない。
道徳という範疇の中で悪とされているものが泥だとして、自分の両手にわずかな泥も付着していないという人はいないだろう。それなのに、私たちは自分が善良な人間であるという幻想を信じてやまない。誰かにとっての正義が誰かにとっての悪であるように、善良と思える行いの裏にはそれによって損をしたりいやな思いをしたりする人の存在がある。

人がみな勧善懲悪が好きなのは、それが古代から宗教やエンターテイメントとして脈々と受け継がれているのは、結局のところそれが叶わない妄想だということの証明に他ならない。もしも人類がすべて悪を克服し善人となっているのであれば、勧善懲悪というテーマは道端に転がる石ころのように価値を持たないはずだからだ。

そして、そんなことは実は誰もが知っていることなのである。自分が潔白で善良な人間でないと自覚しているからこそ、少しでもよりよくなろうとあえてその思想に乗っかっているのだ。

つまるところ、人々が勧善懲悪的な言動を取るのは、自分が取り組める範囲内での努力義務のようなものであり、しかもそれが相対的な価値観であることは明白であるから、「私は絶対正しい」なんて言葉を吐くことはできない。せいぜい「何が正しいかはわからないが、自分にとって最善と思えることをやっていく」程度のことしか言えない。

一度でも物事の善悪や是非について考えたことのある人はそれをわきまえている。物事には複雑な事情があり、それぞれにとっての合理的な考えがあるのだ。

これまで長々と能書きを垂れてきたが、結局何が言いたいのかといえば、それは「経費の精算を締切日ギリギリに出してくるお前はクソだ」と私に言い切った経理のあいつはクソだということだ。


大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。