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双方の合意がポイントです。

私は本州日本海側の政令指定都市で発達障害者の自助会を主催しているのですが、その自助会が今年の4月で6年目に突入しまして。
なんだかんだとイロイロあったのですが、結局のところ「ムリに頑張らない」ことが続いている理由なのだと思うのです。

頑張れば当然のように負荷がかかるワケですし、そもそも生活に負荷が掛かっているから自助会を開催しているワケですからね。
負荷を軽減するために開いている会が負荷の原因になるようでは、それこそ本末転倒なハナシなワケでして。

私の主催する自助会は、政令指定都市とは言え、大都市圏のように幾つもの都市が横並びにあるような大都市圏にあるワケではなく、「ポツンと地方都市」である点で、専門性を強く押し出すことができません。
周囲には私の自助会以外の自助会が殆どありません…30kmほど離れた隣り町に、最近出来たのを確認したのですが、北の端から西の端まで海岸沿いに走って約330kmもある「長い県」ですからね、その広大な範囲で専門性を「売り」にしても、カバーできないワケです。
大体にして私は一当事者であって、専門家ではありませんし。

だからね「どんな方でもウェルカム」で、出てくる話題は前回と同じでも構わない…と私は思っているのですよ。
繰り返し出てくる話題というのは、それだけ多くの人が同じように悩むポイントであって、多くの人が同じことを「それぞれの経験」に沿って話すから、繰り返し聞いている人は同じ話題のエピソードを、イロイロな角度から聞くことになるワケです。
理解というのは、そうやって深まって行くのだろう…ということは、繰り返しを長く続けた結果として初めて感じるのかもしれません。

さて…そんな私が主催する自助会ですが、話題の中心になることが一番多いのが「仕事について」です。
特に最近は改正された「障害者差別解消法」が2024年4月1日に施行されたことによって義務化された「合理的配慮」に注目が集まるとかが多いのですよ。

以前にも記事にしていますが、私の思う「合理的配慮」とは「トヨタ式カイゼン」で説明できる、極めてシンプルなモノです。
問題を発見し、改善案を立て、実行し、効果測定をし、定着させる…いわゆる「PDCAサイクル」を、私の中で実現するのが「合理的配慮」と言うことです。

例えば…。
私には聴覚過敏がある(問題の発見)から、イヤーマフを使いたい(改善案の立案と承認/合意)、実際に使用してみる(改善案の実行)、使ってみた結果の利点と欠点の確認(効果測定)、継続使用か修正かを相談する…と言う一連の「PDCAサイクル」こそが合理的配慮である…と言うことね。

この方法は理に適っている一方で、配慮を受けるためには、問題の発見とその改善案の立案ができ、それを提案する能力が必要になるワケで、その能力を身に付けるのはナカナカにして大変なのは間違いないのだとも思うのです。
実際に私の経験上、工場の生産現場で全員が「PDCAサイクル」による改善提案の実行ができる…ワケではなく、得意な方もいれば、苦手な方もいたワケですよ。

同じように、全ての発達障害者に「PDCAサイクル」的な改善方法をベースにした合理的配慮の提案を要求することにはムリがあるワケで、ココをどのようにクリアするのかは、「考えもの」であったのは間違いありませんでした。

さてさて、自助会での話題は、少し前の「車イスユーザーの映画館での話」になりました。

車イスユーザーが車イス席以外の席に連れて行ってもらうのは、ワガママなのか、それとも配慮か?

話題は実際に起きてしまったのコトの顛末…コレは「誰が悪いか」に対する言及ではなく、もし自分がそのユーザーだったとして、必要な配慮とはなんだろう…という点です。
その結果で見えてきた答えは、「必要なのは合意」なのだ…ということ。

私は車イスユーザーだけど、どうしてもその席で映画が見たい…として、それを実現するために必要な「支援」を権利としてゴリ押しで要求することは、「配慮」とは違うよね。
ここで話題になったのは、提案が当事者側からだけではなく、対応者側から上がっても良いだろう…ということ。
例えば、「今日、今、ここで」は難しいけれど、「明日、ここで、同じ時間に」ならできるけど…という提案が示されたとして、その提案に対しての「合意」に至るか、です。

車イスに対しての配慮が全て「合意」の上で…が必要かと言えば、支援として必要な場面もあるから、それはまた違うハナシになるのでしょうが、自助会の会話の中で見つかった視点としては、「問題の把握とその改善案/対応案は、当事者が示さなければならない」…とは限らない点なのね。

その「改善案/対応案」を当事者側が示しても支援者側が示しても、必要なのは「やってみよう」という双方の合意と、やってみた結果の共有なのでしょう。
こう考えた時、合理的配慮に馴染みがなく、経験量の少ない当事者/支援者が「どのように合理的配慮」に向き合えば良いか…の突破口が見えてくる気がするのです。

自分が苦手なことを自助会で言葉にすることが、得意な人には見えない「躓きのポイント」の明確化に繋がるワケで、躓くポイントがわかることで必要な情報が見えてくるのでしょう。

コレを踏まえて次回、当事者側が示す「申請方式の合理的配慮」ではなく、支援者側が示す「提案方式の合理的配慮」の可能性はないか…を考えます。

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