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バロメータかもしれません。

1993年の1月から3月にかけてTBS系列で放送されTVドラマ『高校教師』は、内容がセンセーショナルであったこともあって「名作」して名前が上がることが多いのですが、私の場合は卒業論文から解放された大学生活の最後の3ヶ月であったが故に、よく覚えている…でもあったように思います。
当時は今のように、多くの作品がサブスクで見逃し配信されるようなネット環境があるワケではなく、それ故に興味の分散もされ難い時代であったようにも思います。
今のようにいつでも見られるワケではないから、大衆が話題性の高いものへ引き付けられやすかったのでしょう。

裏を返せば、ネット環境の進化が作り出す「いつでも見られる」という安心感は、今見なくても良いが故に、人々の興味の分散を進めたようにも思います。
コレは「親近感を感じます。」のフリーレン考察で指摘した、「いつでもできる」が作り出す共通の関心事への熱量の低下が理由の、定型発達者(NeuroTypical) の環境変化による「後天的な Autism 要素の獲得」でもあるとも言えると思います。

さてさて…社会的タブーに挑んだドラマとしての「高校教師」は、その内容を際立たせることになる森田童子さんが歌う主題歌、「ぼくたちの失敗」という楽曲への注目もまた話題になったのです。

森田童子(1952〜2018)さんは1970年代後半から1980年代前半にかけて活躍したシンガーソングライターなのですが、その人物像には謎が多く、「高校教師」が放送されて話題になった時は、既に活動休止から10年近くの年月が過ぎていたのです。
当然(私を含めて)彼女を知らないドラマ視聴者が圧倒的に多く、当時のマスコミは現役時代に陽の目を見なかった彼女に対して「早すぎたシンガー」と語ったのでした。

当時のTVドラマとしての「高校教師」は、今でもかなりショッキングな内容だったのですが、放送から30年経った今でも埋もれることなくサブスク配信される程の「名作」となったのは、世に出たタイミングであったように思います。
この問題を、今ここで扱って、世の中は受け入れるのか…。
その対比としての主題歌「ぼくたちの失敗」は、1976年のリリースではヒットに至らず、センセーショナルなTVドラマに見合う主題歌というドンピシャなステージを得て、1993年の記憶に刷り込まれるワケね。

ただし、その世界観に1993年の要素はなくて、「電熱器」「ジャズ喫茶」「チャーリー・パーカー」…などのワードに1970年代の景色を見ることになる。

その本当のところはわからない…推測の域を出ないワケですが。
TVドラマの「高校教師」の主題が、教師と生徒の「禁じられた恋」と、それを取り巻く社会的タブーの数々だとして、1993年当時の社会はその「問題提起」を受け止める土壌があった…ということでしょうかねぇ。
仮にその世界観とベストマッチする森田童子の「ぼくたちの失敗」が、TVドラマの「高校教師」と同一のものを語ろうとしていたとして、1976年のリリース当時の社会が、彼女の言いたいことを受け止めるだけの土壌になっていたのか…とか考えます。

もちろん、社会的土壌だけではなく、知名度やプロモーションなど「売り出すための努力」か違うのは、その通りなのですけど。

TVドラマや映画などは、一部の例外を除いて基本的「商業」ですからね、ウケて採算が取れないといけないワケです。
だから「大衆受け」の範囲を見極めるのはとても大切なことなのだろう…と、思います。
大衆の理解できる範囲で、如何に新しい何かを作り上げるのかは、クリエイターの皆さまが知恵を絞り競い合う部分なのでしょう。

それはこのようなnote記事を書いていても感じることです。
私は私の記事を、私の思考整理の為に書いていて、それを敢えて公開しているのは、最低限意味の通じるモノを書くことで、思考の飛躍を防ぎたい(論理性を確保したい)から…です。
だから、「インプレッション」や「スキ」の数はあまり気にしてないのですが、閲覧数的には私の思いとは別に「人気のある記事」と「そうではない記事」に差が出るワケです。

では、どんな記事に人気が集まるのか…と問えば、それは「経験談からの Autism 性の解説」が一番ですよね。
簡単に言えば「あるある」からの Autistic 思考/行動の分析です。
Autistic な私が「どんな風にモノゴトを考えるのか」は、自己分析の基本なのですけど、それは前回の記事「『気付きの断崖』から飛ぶのです。」で指摘した通り、その理解だけでは社会に適応できないのですよ。
Autistic な私と NeuroTypical なあなたの違いをお互いに確認して、違うことを理解した上でどのように折り合いを付けるのかが大切なのです。
それが「啓蒙の坂」を登ることを扱う記事になるのですが、残念ながらこの手の記事に対しての人気は…ありません。

つまり、「啓蒙の坂」を扱う記事が社会に認知されるには、まだ時期尚早なのかもしれない…と。

私の文章力が拙いことを棚に上げて「こんなこと」を書くのは生意気なのかもしれません…が、いつも同じテンションの同じ言葉回しを心掛けながら記事を書いていて、コレほど差が生じる理由には、それなりのワケがあるように思ったのですよ。

どんな記事がよく読まれ、どんな記事が読まれないのか。
そこには社会が求める情報の標準偏差が、「ダニング=クルーガー曲線」のどの位置にあるのかを示しているようにも思います。
私のnote記事を見返す限り、インプレッションの中心は、初歩的な知識で構成される左端の山を作る記事に集中しているように思います。
このインプレッションの示す位置は、社会のバロメータとして機能する…と。

数年後…社会が成熟して「啓蒙の坂」を扱う記事が、何かの拍子に注目されたりする日が来たりするのでしょうかね。
それこそ森田童子の、あの名曲のように。


TVドラマ「高校教師」の最終回、2人か電車で逃避行した最期に行き着いた場所は、「青海川駅」でした。

国道8号・米山大橋の直下、両側を山に囲まれた谷底の駅は、日本一海に近い駅としても有名です。
JR信越本線、柏崎駅から上り(長岡・新潟とは逆方向)方面に二駅…「ここに、駅か」と思うほどのインパクトですよ。

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