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Episode 77 自分が基準になるのです。

ひとりでいることが多いASDの私ですが、それはひとりで生きていけると言うこととイコールではありません。
家族も親戚もいますし、職場では上司も同僚もいます。
完全にひとりで生活することなんてできませんし、しようと思ったこともありません。

私は私のフィルタが通った世界しか見ていないので正確なことはわかりませんが、恐らく普通の人たちよりも目に見えるモノで思考する性質があるのだと思います。
常にいくつもの「物差し」を用意して数直線上に座標を求めるのです。
その思考は感情が入り込む余地があまりにも少ない無機質なモノと感じるかもしれません。

例えば、職場の昼休憩での話…。
仕出し弁当を注文できる仕組みの会社に勤務している私は、基本的には仕出し弁当を食べます。
弁当のおかずは日替わりで決まっていて、メニューを選ぶことはできません。
弁当を注文する人は、全員同じメニューの同じ量のものを食べるわけです。
これ、すごく分かりやすく食べるスピードの差が見えるんですよね。

自分を基準点に置いて、上司や同僚の食べる速度を見ているんです。
あの人は私よりもちょっと速い…▲1分なら、10分弱ってところか…。
この人はかなり遅いな…+4分だと、15分ぐらいかかっているな…とか。
そういう私は、だいたい10分で食べ終わって、歯磨きして午後の始業まで仮眠です。

そのほかに、あの人は歩くのが速い、この人はパソコンの入力が速い…などなど。
ありとあらゆるものを比較して、その個人の性質を形作るのです。

そしてその座標軸の中心には必ず私がいます。
比較の対象は常に私…あの人とこの人を比べる時も、基準点が私である以上、ある意味私も含めた比較です。
私の時刻表生活は、このように自分と相手とを比較した上で、相手との物理的な距離感を保つということなのかもしれません。

社会では人との係わりの中で生活することが求められるわけです。
それ故に「風通しを良くするためにコミュニケーションを…」とか言うんだろうとも思います。
でも、コミュニケーションを密にとることがだけ関係を良くするわけではない…と私は思うのです。

私は自分を基準にした数直線の世界観で、社会との距離を測って生きています。
それは私が社会に on する知恵なのです。

旧ブログ アーカイブ 2018/11/30

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