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彼女の手記

 私は時々、そこを訪れる。

 終わらない仕事からの一時的な休息を求めて、私はその丘に足を運ぶ。
 だだ広い丘、一見すると何も見当たらない丘、それでも、私にとってそれは大きな意味を持っている。
 日々の疲れ━━━といっても、「新進気鋭の小説家」としての━━━に耐えきれなくなって、ある種の無意味さ、純粋な意味を求めて軽率に自然をむさぼるのではなく、意味にまみれた社会からはずれた、ある意味での「みすぼらしさ」を探しているのだ。

 目の前のキーボードを次々と叩く。ただの文字の羅列に人は喜怒哀楽を感じ取れるのだから、つくづく幸せ者だよな、と思う。思いながらまた叩く。叩く、叩く、叩く……。

 あるとき、突然叩けなくなる。脳内で繰り広げられていたはずの劇はにわかに息を止め、役者は錆びついたブリキ人形のように仮死状態に陥る。こうなったらもうだめだ。筆は折れっぱなし、ブルーライトは浴びっぱなし、ドライアイは加速しっぱなし。

 そこで、この丘の出番である。小高くなったところから見る景色は、風光明媚な大自然でもないし、街の明かりでロマンティックな雰囲気を醸し出している訳でもない。だが、それが私の一番の癒しになる。母なる大地に生命の尊さを讃頌するのでも、人間生活のちっぽけさをその光の中にしみじみと感じるのでもなく、ただ、「ありのまま」が広がっている。
 私はその「ありのまま」を見つめて、見つめて、見つめて、「意味を見つけだす力」を取り戻す。意味で氾濫した社会に溺れながらもがくよりも、一度溺死してから砂浜の素朴さに酔いしれればいい。
 意味が多ければ多いほど、その受容体は麻痺してしまって、かえってその意味がつかめなくなる。だから、私は大海原で荒波をかいくぐり、サメに泳力で打ち勝ち、海坊主を持ち前の腕力でなぎ倒しながら、小さな島を探す。つまり、「逆オアシス」である。

 丘にうつ伏せになり、草をじっと見つめる。すると、蟻がいたりする。次に、立ち上がって遠くの木を見る。すると、あおあおと茂った葉っぱたちの上にちょこんと雀がとまっていたりする。そして、私は仰向けになって空を見る。すると、風が強くなって、雲たちが一斉にそのスピードを速める。私はぼんやりと「速いなー」とつぶやき、目を閉じる。そして、鼓膜をノックする姿なき来訪者を無視し、首筋に登ってきているような気がする蟻をも無視し、何ものかの接近を示す足音らしきノイズをも無視し、私は夢に閉じこもる。

 現実が「意味のツギハギ」だとしたら、夢は「意味のサラダボウル」だ。一応体裁を取り繕った、すなわち意味は通っている現実とは違って、夢は意味がわからない。昔の同級生だったアイツが女装してタクシーの運転手をやっているし、最寄りのショッピングモールに親が居酒屋をオープンしてるし、自分は猿とバスケしてるし。

 私は時折無性にその意味不明さを摂取したくなる。スポーツ選手でいうイップスみたいに、小説の書き方が突然わからなくなることがたまにある。あの新人賞を獲得したはずの過去の私が、本当は私ではなかったんじゃないか?と疑ってしまうほどに。そんな時に、夢を見たくなる。

 夢の中で、私はずぶ濡れだった。そして現実の方でも、私はずぶ濡れだった。「ありのままを見つめる」とか高尚なことを言っておきながら、ありのまま界の頂点に君臨する雨を厭うこの矛盾。そんなこと言われたって、服濡れたらやだし。誰もいない家に逃げ帰る。

 鍵を開けて、ドアを開けて、鍵を閉めたら、もうそこはいっちょまえの私的空間。法律も道徳も常識も存在しない「私の私による私のための世界」に早変わり。服を脱ぎ捨て、風呂に入る。そして、原稿の存在を思い出す。液晶と対峙しない限り進まない私の仕事、続かない私の生活、つつがないワタシのセイカツ……。

 結局面倒くさくなって、布団に身体をそっと入れていく。すぐそばのパソコンは見て見ぬふり。
 「それで小説家としてやっていけんのかよ」という指摘の言葉が32方位から聞こえてきそうだが、それは問題ない。なぜなら、「超筆が進む日」がなぜか等間隔で存在しているからである。その日は何かに取り憑かれたように原稿が進む。脳内のブリキの役者はクレ556をさされて残像が見えるくらい速く動く。何かに取り憑かれているというよりも、「私という怠け者の霊」が、「普通に原稿仕上げるの超早い新星小説家」に取り憑いていると言った方が適切かもしれない。なんだか、「胡蝶の夢」みたいな話だ。

 そんなわけで、私の生活のすべては明日の自分にかかっている。明日の私よ、どうか「超筆が進む人」であってくれ!それか、今日の私もとい「怠け者の霊」よ、どうか一刻も早くこの身体から抜け出してくれ!

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