急な痛みをどう合理化するか

 突然襲ってくる腹痛。作業中の手を否応なく止める鈍い頭痛。じつは自分は大病を患っているのではないかと疑いたくなるほどの胸の痛み。これらの痛みは、何の予兆もなく私たちの生活の秩序を乱す。なぜいま、この痛みが? そう問いかけても、誰も答えてはくれない。

 この痛みは、私にしかわからない。なのに、その原因は私にもわからない。私の意識にのぼってくるこの痛みに、私は理由を与えることができない。その事実に、恐怖を覚える人はそう少なくないと思う。

 だからこそ、人は痛みの理由を説明しようと考えをめぐらす。このどうしようもない不安から逃れるための方法の結晶が、現代医学だと言っても過言ではないだろう。もしくは、医学に頼らずとも、私たちは日々、痛みに理由づけをしている。たとえば、ご飯を食べた後に具合が悪くなったら、「さっき食べたのがあたったんだ」と思うし、集中力を奪う長く低い頭痛が続いたら、「最近寝てないせいかな」と考える。そして、その理由に納得できたら、一応、「痛みの理由がわからない恐怖」からは免れることができる。

 でも、その理由づけが「正しい」かどうかは、医学の及ばない日常的な次元に限って言えば、実のところ誰にもわからない。(ここで「正しい」とカッコでくくっているのは、医学が説明しうる「科学的な正しさ」のことを表すためである。)痛みの原因の不在ゆえの不安は、究極的には解消することができない。この「痛みの説明責任」を要求する相手がいないことに端を発する不安を解消するために、その相手を捏造してきたのが人類だ。

 たとえばそれは、神であっただろう。神がこの痛みをもたらしたとなれば、痛みの責任を神におしつけるわけにもいかないから、当然痛みは自己責任になる。痛みに耐えることは神の裁きを受けることであり、少なくとも「痛みの不可避性」を合理化することはできたはずだ。じつは、人類が痛みの絶滅を図ろうとするようになったのはわりと最近のことで、医学が発展する前には、むしろ、痛みをどう合理化するか、つまりその痛みがなぜ、どのように生じたのかを「論理的」に説明することに腐心していたのかもしれない。むろん、その「論理」は近代的な理性や合理性とはまったく別種の、「野生の論理」とでも呼べるような代物であった。

 または、痛みの原因を帰する妄想の産物として、妖怪や呪いを挙げることもできよう。こんな妖怪がいて、これが自分にとりついたから痛みが起こったのだ、あるいは、自分を恨んでいるアイツが呪ったんだ、という論理だ。この思考様式では、責任は自分にはなく、根本的な原因として想定される妖怪や、祟りを行った別の人間にあることになる。「わたしのせいじゃないんだ」という安心感――たとえそれが道理に合わないとされるような空想であったとしても――があれば、それで事足りるのである。(合理化によってその痛みが根本的に解決されるわけではないが、「原因不明の痛みによる不安」と、「原因が納得された痛みによる不安」とは、心理的な受け止められ方がまったく異なる。)ここで問題なのは、「ほんとうの」痛みの原因をつきとめることではなく、痛みの原因が「自分が納得できるような形で」説明されうるかどうかだ。

 このような、痛みとの「原始的」な付き合い方について、少し思考実験をしてみよう。ある原始人がいる。彼は狩猟採集社会を生きる原始人で、血縁的なつながりのある仲間たちと共同生活をしている。彼がさっき狩ったばかりの獲物にありつこうとしたとき、急に胸の痛みに襲われた。原始人として彼は、「どうして胸が痛いのか」という難問に、答えを出さなければならない。さて、彼はどうするか。

 集団のなかには有名なシャーマンがいた。彼はその者に尋ねる。「さっき肉を食べようとしたら急に胸に痛みが走りました。なぜこのような痛みが生じたのですか?」シャーマンはこう答えた。「それはその狩られた動物が霊にとりつかれていて、お前がそれを食うと霊は宿主を失うので、食べてしまわないように警告したのだ」あるいは、こう言うかもしれない。「お前の体内に悪い虫が入り込んでいて、それが肉のにおいを嗅ぎつけてさかんに体中を這いずり回ったので、胸に傷をつけたのだ」

 彼はそれを聞き、そういうことだったのか、と膝を打つだろう。そして、その獲物を食べずにほかのものを食べたり、悪い虫を追い出す薬を飲んだりして、その痛みを「解決」するに違いない。こうして彼は安心し、普通の生活に戻ることができた。

 これと比べると、現代人の疑り深さには目を見張るものがある。現代人の多くは、このシャーマンの説明を聞いたら、馬鹿馬鹿しいと一笑に付すことだろう。しかし、原始人の彼に、シャーマンの説明を疑うことなどできただろうか? 彼と私たちとの違いは、この疑り深さの違いであると思う。

 しかし、何かへの疑念が深ければ深いほど、それに対置されるまた別の何かへの信仰も深くなるものである。ここで対照的なものとして取り上げられるのが、呪術と科学である。現代人はもっぱら呪術を軽蔑し、科学を称揚している。これは当然の成り行きだろう。なぜなら、私たちは科学が人間の痛みを合理的に説明し、実際に治癒するところを目撃してきたからである。科学の蜜の味を知った現代人は、もう呪術には満足できないからだになってしまったのだ。

 ただ、科学にも弊害がある。科学とは切っても切れない関係にある「分類」という文化は、医学においては病の命名という形で現れるが、この科学的正当性をまとった病名は氾濫してしまう可能性をつねにはらんでいる。Aという症状に対してBという病名がつくと、人は思わず納得してしまう。名前があるかどうかの違いだけで、納得の度合いが違うのだ。もちろん、名前がつけられることによって、その病気の理解が深まる契機となる、ということは否定できないが、それでも「命名」の威力は絶大であると言わざるを得ない。名前は便利だが、その便利さゆえに、その奥にある複雑さを覆い隠してしまう負の側面をもってしまう。「名前だけは知っているけど中身は全く知らない」という状態が発生するのも、このような特性あってのことだ。

 少々話がそれたが、結局のところ、人間は昔から痛みの説明責任を要求する相手を探し求めていたのである。唯一の違いはと言えば、その相手が神や妖怪などの超自然的なものなのか、科学的に説明される身体の生理的プロセスなのか、というところだけなのだ。この不可知なるものにどうにかして近づきたい。そのアプローチの仕方が、時代の流れとともに変わりつつあるというだけの話なのである。

 異文化社会において、痛みの原因の説明が超自然的で「非合理的」に思えたとしても、馬鹿にしてはならない。彼らには彼らなりの論理があり、私たちのやっていることとそう変わらないのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?