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しゃーでんふろいで

――可哀相に。
――なんて
なんて悲しいお話なんだ。

『ナツノクモ』ゴロー

後入れ先出しの原則に従って書きたいことを書く。

これはだいたい自虐、ないし懺悔だ。お気持ち表明ではない、と思う。具体的な何かを見て感じたことかもしれないけど、それ以前に自分の内側にあったことだ。だから個別の事象はさして関係ない。

自分の中に恥ずべき部分がある。それをなくしたいと思う部分も、なくせないと思う部分もある。意識が高い人間なら無視するか排除するのだろうけれども、おれは意識が高い人間ではない。ただ、自覚はしておきたい。これはそういう文章だ。気楽に。どうせみんな自虐的な文章が好きなんだし。

「他人の不幸は蜜の味」という言葉がある。事実だ。他人のある程度の不幸を聞いた時には言いようのない喜びが胸に浮かぶ。心当たりはあるだろう?おれはある。

しかし、それはそれなりに遠い間柄の人間か、不幸の度合いが取り返しのつく範囲(せいぜい惚れたはれた振った振られた程度の話)に収まっている間だけだ。おれはそれなりに善良なので。身近な人間の問題だったり、深刻な不幸(お金やら健康やら夢とかに関する話とか)になってくるとにやにや笑いは消え、決まりの悪そうな深刻顔がとって変わる。

けれども、その深刻な顔の裏でどこか楽しんでいる自分がいるのを感じることがある。

それともこうかもしれない。深刻な不幸を誰かが乗り越えてハッピーエンドになった時に、いい話だと涙を流すこと。涙をぬぐったハンカチで食べた牡蠣を隠すような浅ましさ。そんな感じを感じるというのが近いのだろうか。

『ナツノクモ』という漫画がある。そこに「ゴロー」という登場人物が出てくる。彼はそれなりに歪んでいて、その歪みが物語に不幸をもたらす。

僕は悲しい話とかお涙頂戴の話が大嫌いでね
(中略)
――でもそんな僕にも張り巡らせたあらゆる防壁をすり抜けて話が心に染み入って来る事がたまにある。
そんなときには自然と涙が溢れて来て、「負けた」とも思うんだけど、同時にふと気づくんだ。
そうして負けることを自分は何よりも望んでいたんじゃないかって。
(中略)
――でも僕は今満たされているんだよ。
彼女たちの数多くの悩みで僕は人間らしくすごく充実しているんだよ

例えばある二人が何かの道を進んでいるとしよう。ここでは仮に演劇にでもしておこうか。一人は向上心を持って研鑽に努めている。もう一人はなんとなく続けている。ところが最初の方の友人が何らかの理由(経済的な理由だろうか、それとも才能か、健康面でもいい)で演劇の道を諦めざるを得なくなった。それを聞いて確たる動機なく演劇を続けていたもう一人は他方の志を継いで、真面目に研鑽を積み、立派な役者になりました。諦めた方も何か別の道に進み、成功しましたとさ。

めでたしめでたしのお涙頂戴の文句のないハッピーエンドだよ。それが文章で読むのだったら、それとも映画の中の出来事なら何の問題もない。じゃあ二人がおれの友人だったら? 同じように無邪気に涙を流せるだろうか?

別の分岐もある。やめなかったもう一人は辞めていった友人に影響を特に受けず、ただ日々を過ごしている。やめていった友人の無念を知っているおれは続けている彼に何か言うだろうか? いや、言わないかもしれない。ただ、期待してしまうのを止められない。無念を知って彼が努力をすることを。

その期待を邪悪だと思う。それとも邪悪だと思う自分を認識することで邪悪でなくなろうとしているのだろうか? それはそれで邪悪だ。

ただその暗い欲求を無視してないものとして扱うのも嘘だと思う。だから、ここに書いておきたいと思う。それともそれさえも露悪的な自己満足だろうか?

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