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偏見は悪なのか

最近“偏見“というものについてよく考える。
「偏見」がどういうものなのかをまずは見てみよう。

偏見とは,特定の集団やその構成員に対する固定的な見方を指す概念であり,集団(グループ)をベースとして個人を判断することである。ただし明示的な集団が存在しない場合でも,たとえば「トラッド系のスーツを着こなしている人は,仕事ができる」といったように,共通の特徴をもつ人びとに対して画一的な見方をすることも偏見である。

コトバンクより

では実際にどのような場面で偏見と感じるかを考えてみよう。

①数学科に属している人は数学が好き。
②身長が高い人はそうでない人と比較して体重が重い。
③若者はテレビよりもYouTubeに関心がある。
④ピアスを開けてる男はチャラい。
⑤女性は力が弱いことが多い。
以上5つのうち、どれが偏見で、どれが偏見じゃないのだろうか。
①〜⑤全てを偏見でなく事実とした人もいれば、①、④のみを偏見とした人、①③④を偏見とした人もいるのではないだろうか。
(④の文に悪意は一ミリもない。なんかこれだけ浮いて見える。ピアス開けてる人全然友達にいる。ピアス開けてる人悪く思わないでほしい。)

僕は全て偏見だと思っている。〜〜はという部分は共通の特徴を持つ人の集合で、後半部分は画一的な見方だと思う。つまり人に対してイメージを付与することは、もう偏見となってしまうのではないかと思う。
(あくまで僕の意見だと思ってほしいですわね。)

他の場合を考えてみよう。
今あなたは電車に乗っていて、目の前にはお腹が少し大きい女性がいると想像してみてほしい。


もちろんここでは妊婦を想起させることを目的として書いているが、今想像した女性は、20〜40代の日本人女性ではないだろうか?私が提示した状況だけだと、外国人の可能性もあるし、10代や50代以降の女性の可能性もある。しかし想像するのは20~40代の日本人女性になってしまう。妊婦か否かを判定する前にそのような女性を想像してしまうのだ。
(20~40代の日本人女性以外を想像した方ごめんなさい。決めつけちゃいました。)


さて上記を踏まえた上で、偏見が悪なのか、悪いことなのかを考えていこうと思う。僕は悪いことだとは到底思えない。むしろその人を捉えるためには、必ずと言っていいほど必要な行為に思える。
偏見のない世界を想像すると、見た目以上の情報はなく、イメージや評判といった概念は無くなるだろう。どういう世界?って思うし、世界として成立してるとは思えない。
上の女性の例からも分かるとおり、人間の脳みそは与えられた情報から色々と想像したり、与えられた情報以上のことを勝手に考えるつくりになっているんだと思う。
僕は基本的に知らない人を“敵“と捉えている。なので基本的に知らない人は全員嫌いからスタートする。そこから、少しずつ話して、色んな考えや特徴を聞いてこういう人だろうと考えたり、気の合う人だなと思って好きになっていく。
急な自分語り失礼したわ。
色々書いたが、僕は偏見をなくすことはできないし、それ自体も悪いことだと思わないし、思えない。

では偏見は悪ではないとした上で、何が悪なのかを書いていきたい。
偏見は悪い行為ではないが、こういう人だと断定し、柔軟にその人を捉えることができないことは悪だと思う。また、そのマイナス方向の偏見を相手に伝えることも悪だと思う。時としてプラス方向の偏見を相手に伝えるのもマイナスになる可能性もある。東大生に頭良いんだ〜と言う流れは、東大生はいっぱい経験してると思うし、いちいち謙遜するのも面倒と感じているかもしれない。

つまり
偏見という行為自体は悪いことではないが、それを人に押し付けることは悪だ。

知らない人を全員敵だと思っちゃう僕はかなり色々な偏見を持っているだろう。それを人に押し付けぬよう生きていきたい。

おわり。


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